屋敷のほとんどが
照明を
落とし、
漆黒の
闇に
包まれた
夜更け。
闇夜にぽつんと
光る
窓辺がひとつ。
その
部屋の
片隅で、
少年と
少女の
影がひとつに
重なっている。
(
好きな
人とのキスは、どうしてこんなに
甘いんだろう……?)
からだ
中が
熱に
浮かされたように
溶けだしそうになりながらも、
少女はあまい
砂糖菓子をねだる
子供のようにキスをせがんだ。
「──
君は
僕を
殺す
気かい?」
もう
何度目かもわからなくなったくちづけのあと、ロジオンは
罪深いものを
見るようなそんな
目つきで、
少女の
耳元に
柔らかい
口調でささやいた。
生まれてこのかた、こんなに
物騒なことを
言われてときめいたことはない。
(あたしのほうこそ、もう
何回あなたに
殺されかけているのかしら……?)
無条件で
彼に
降伏しそうになったが、それは
自分の
胸のうちだけに
留めた。
アナベルはこれ
以上彼の
意識がのさばることのないように、とがめるように
彼を
拒んだ。
(……そんなこと、ぜったいに
口にだして
言わない。だって、くやしいもの。あたしがこんなにもあなたに
夢中だって、これ
以上知られたくないから……)
そんな
彼女の
異変に
気づくと、かえって
燃えあがったのか。
壁際まで
追いつめて
逃げられないようにしてからくちびるを
塞ぐ。
退路を
断つような
強引なキスに、その
性急さにすこし
不安に
襲われながらも、アナベルはふたたび
彼の
熱い
舌を
受け
入れた。
☆
うとうととまどろみながら、
瞼をうすく
開けてぼんやり
天井を
見上げる。
布のすき
間から
容赦なく
光が
射しこんでくるので、どうしても
細目になってしまうが、おぼろげに
物の
輪郭がくっきりと
見えはじめる。
そして、ようやく
目覚めてから
感じていた
違和感の
正体にたどりついた。
ここが
明らかに
自分の
客室ではないことに
気づくと、
彼は
即座にベットから
飛び
起きた。
「……どうなってるんだ……?」
自分の
置かれている
状況にしばらくついてゆけず、
少年は
思わずうめき
声をもらした。
彼が
身を
横たえていたクイーンサイズの
寝台は、
豪華な
天蓋つきで
優美なドレープを
何層にも
織りなしながら、ベットの
周囲を
覆っている。
控えめな
少女趣味といった
部屋の
内装は、アナベルの
部屋に
通じるものがあった。
だが、
見慣れた
彼女の
部屋とはだいぶ
異なっている。
たとえるなら
可愛らしい
装飾品。いわゆる
雑多な
物がいっさい
置かれていないのだ。
己の
持てる
力を
総動員して、
昨夜の
記憶を
必死にたどる。
(たしか
僕は、アナベルに
誘われて
彼女の
部屋に
行って、それから……)
思わず
彼は
身震いした。
よりによって
酒を
飲んだところで、
意識がとだえているのだ──
床には
脱ぎ
散らかした
衣類とおぼしき
布地が、なぜかところどころ
点在して
落ちている。
眠るときはいつも
簡易のローブに
着替えるのだが、
今日はなぜか
上半身裸だった。
いやな
汗が
背筋をつたって
下りてゆく。
わるい
予感しかしない。
なにもやらかしていないことを
祈りつつ、
椅子の
背もたれに
掛かっていたシャツを
急いで
羽織ると、カフスのボタンを
留める。
とつぜんノックの
音もしないで、
扉が
開いた。
「あっ!ごめん。もしかして、
着替え
中?」
アナベルが
戸口から
顔をのぞかせたものの、
気をきかせて
廊下に
戻ろうとしたのをあわてて
引き
止める。
強引に
部屋に
招き
入れるようなかたちになったが、この
際気にしてはいられない。
彼女に
事情を
聞くのが
先決だ。
自分がおそろしくとりかえしのつかないことをしてしまっていないか、
確認しなくてはならない。
彼は
心の
奥底から
勇気をふりしぼってたずねた。
「……ア、アナベル……。
昨日の
夜、
僕は………」
「……べつに、なにもなかったわよ……」
わざと
視線をそらすと、
少女はどこか
拗ねたような
口ぶりで
言った。
「そ、そう……?なら、
良かった……」
あからさまにホッとした
表情になったロジオンを、
面白くなさそうな
顔をして
見つめている。
「……どうして、
怒ってるの?」
「……べつに……」
「やっぱり、
怒ってるじゃないか!」
「──
覚えてないの?
昨日のこと──」
アナベルはなんともいえない
複雑な
表情で
彼を
見上げると、あきれたように
肩からため
息をついた。
☆
くちづけに
吐息が
混じりはじめたころ。
なぜかこれからというところで、とつぜんロジオンが
自分から
身体を
引き
離した。
アナベルが
怪訝に
思って
見つめると、
彼は
苦しそうに
胸許を
押さえてうずくまってしまった。
「……うっ……」
「ちょっと、だいじょうぶ……?」
心配そうに
寄り
添うアナベルをよそに、
彼はこともあろうに
胃のなかのものを、
全部吐き
出したのだった……。
(……やっぱり、
飲ませすぎだったかしら……??)
あっけにとられている
間に、ロジオンは
音を
立てて
床に
倒れこむと、そのまま
気持ちよさそうに
眠りについてしまった。
……まったくいい
気なものである。
とり
残されたアナベルはぼうぜんとして、ぬけ
殻のようになってしまった。
いっきに
酔いも
覚めて、これからどうしようかと
途方に
暮れた。
助けを
求めようにも、ラグシードはまだ
帰ってきていなかった。
あの
護衛はいつも、
必要なときにその
場にいたためしがない。
ロジオンはいとも
無防備な
寝顔をさらしている。
あらぬ
疑いをかけられないよう
使用人を
呼ぶわけにもいかず、アナベルはたまらず
姉のキャスリンに
泣きついた。
夜中にたたき
起こされて
不機嫌なうえに、とんでもない
光景を
見せられて、さすがの
姉も
言葉をうしなった。
客人は
嘔吐して、
血を
流して
倒れているし、よく
見ると
妹の
頬も
血がべったりとついている。
床にはなぜか
陶器の
欠片が
散らばっている。
一瞬、
暴力でもふるわれたのだろうかと、
目の
前がまっ
暗になった。
事情を
聞いてあきれ
果てたものの、
原因の
大半は
酒をすすめたアナベルにあると
結論づけた。
汚れてしまった
彼の
上着を
脱がすよう
妹に
指示を
出し、
手のひらに
包帯を
巻いて
止血した。
そして
隣りの
部屋に、
二人がかりで
彼を
運んだ。
妹の
恋人とはいえ、
昼間とはうってかわってだらしない
姿にうんざりしたが、
放っておくわけにもいかない。
父が
会議で
今夜は
屋敷にいないことに
感謝して、すべては
秘密裏のうちに
事なきを
得た。
(……それにしても、ロジオンさんが
酒癖がわるかったなんて……)
キャスリンは
一人ごちた。
欠点は
意外なところに
潜んでいるものである。
(たしかにちょっと
隙があったほうが、
女はほだされるものだけど……)
ふと
品行方正だった
祖父が、
見かけによらず
酒好きのうえに、
飲むと
周りに
迷惑をかける
人だったことを
思い
出した。
両親が
不在がちなこともあり、なにかと
気にかけてくれる
祖父のことを、アナベルは
父親代わりのように
慕っていた。
だが、
良くも
悪くも
欠点を
目の
当たりにすることなく
祖父は
亡くなってしまった。
妹の
想い
出のなかでは、
優しく
上品で
規律正しい
祖父の
姿のままなのである。
(
無意識のうちに
似たような
人を
好きになっちゃったのかしら……?)
自分は
祖父の
別の
顔を
知っていたため、
無駄にあこがれずにすんだのだが。
なにはともあれ、すべて
穏便にかたはついた。
いずれこの
穴埋めとして、
妹にめんどうな
用事でも
言いつけよう。
きっと
文句もいわず、
率先して
引き
受けることだろう。
満足したとたん
思わずあくびがもれる。
月の
光を
浴びて、キャスリンは
健やかな
眠りについた。
☆
「……なんか、その……。いろいろと……ごめん……」
アナベルから
事情を
聞いたあと、ロジオンは
首を
垂れてがっくりとうなだれた。
ひどい
落ちこみようだ。
無理もないだろう。
穴があったら
即座に
入りたいような
気分だ。
「……お
姉さんには、ほんとうに
頭があがらないね……」
この
先、キャスリンと
顔をあわせるのが、
気恥ずかしくもゆううつなロジオンだった。
「すっごく
大変だったんだから……!とうぶん
飲酒は
禁止ね」
「っていうか、
飲む
気にもなれないよ……」
うんざりしたように
頭を
抱えると、
彼はほとほと
自分に
嫌気がさしたとばかりに、
肩から
重いため
息を
吐いた。
「それにしても、どのあたりから
記憶がないの?」
「ええっと……。
子供のころの
話っていうか、お
祖父様の
話をしたような
気がするんだけど……」
「したけど、それだけ?」
「……うん。その
後はさっぱり……」
「そう」
アナベルは
内心ほっとしていた。
ロジオンの
態度が
急変したきっかけにもなった、カプリナ
湖畔に
伝わるという
陶器の
白鳥。
あれにまつわる
出来事は、できれば
忘れてほしいと
思っていたからだ。
(でも、あんな
風に
想われてるなんて、
意外だったな。ロジオンって
普段はあんまり
言葉や
態度にだしてくれないから……。ちょっとは
愛されてるって、あたしも
自信持っていいのかな……?)
ふと
彼と
視線をあわせると、なにやら
不安そうにこちらをうかがっている。
「アナベル……。
昨夜のことで
僕を
軽蔑した?」
「ちょっと、おどろきはしたけど……べつに
許容範囲だわ」
するとロジオンのほうから、こらえきれずに
話を
切りだしてきた。
「べつに
君が
無理する
必要はないんだ。
正直に
言ってくれてかまわない。
僕はどうやら
相当酒癖がわるいみたいだから……」
そのいかにもばつが
悪そうなようすを
見て、
少女は
思わずくすっと
笑ってしまった。
「あなただから
許せるのよ?ほかの
男だったらぜったい
我慢できない!」
「……そっか。ありがとう……」
そのままぎゅうっと
抱きしめられ、
裸の
胸に
顔を
押しつけられて、アナベルは
赤面した。
開襟したシャツの
隙間から、しなやかに
引き
締まった
異性の
肌が
感じられたからだ。
(ときどき
妙に
男っぽいのは、
反則だわ……)
変な
息苦しさに
見舞われながらも、
少女はおずおずと
彼の
背中に
手をまわした。
なんだかんだで、
甘い
砂糖菓子を
口にふくんでいるような
幸せな
一日だった。