その
女がいないと
気づいたのは、
任務を
遂行し
終えて
一息ついた
頃だった。
ぬるい
風が
頬にあたって
通りすぎてゆく
気だるい
午後──
多少の
返り
血を
浴びても
目立たない
黒い
装束は、
風に
吹かれて
優雅にたなびいていた。
たった
今、
大量の
殺人を
犯したことを
微塵も
感じさせない
風体で、ムスタインは
表情ひとつ
変えず、
一人熟考するように
目をすがめた。
その
意識は
自らの
肉体を
離れ、
使い
魔である
青い
小鳥と
同化していた。
籠に
入れられた
鳥の
視界には、
一見して
絢爛豪華な
貴族の
一室が
映し
出されている。
その
部屋は
年頃の
娘の
部屋にしては、
物が
少なく
装飾にとぼしかった。
(まったく、
女の
部屋なのにのぞき
甲斐がないっつーか、
色気がないことこのうえないぜ)
設えられた
家具や
調度品。それらがすべて
高価な
物であることはうかがえるが、
必要最低限の
物以外置かれていない。
書架の
蔵書量が
突出して
豊富なことを
除けば、しごく
簡素でおよそ
少女らしさの
感じられない
部屋だった。
ほかに
違和感を
覚えるとすれば、
主人である
少女の
姿がないということだろうか。
いつもそこにいるはずの
人物がそこにはいない。
(……レクシーナ……。たしか、そんな
名前だ。にしても
部屋にいないのはめずらしいな)
ムスタインが
訝しむのも
無理はなかった。
その
主が「
部屋にいない」ということがどれだけ
稀なことであるか、ここ
数日観察しているだけで
思い
知らされたのだから、
相当なひきこもり
気質だといえるだろう。
(なんにもしなくても
世話してもらえるんだから、まったくいいご
身分だぜ)
後ろ
手で
両手を
組みながら、
皮肉たっぷりにムスタインが
胸中でつぶやく。
事実、
少女はこの
部屋を
出なくてもなにも
不自由はなかった。
食事は
三度とも
召使いが
運んできたし、
浴室などの
水場は
隣接していて、
寝室の
扉から
行き
来するようになっている。
用事があれば、
天井に
紐を
渡して
使用人部屋とつながっている
鈴を
鳴らし、
速やかに
用件を
言いつけることができる。
もっとも、その
使用人すら
不得手としているのか、
極力人と
会わずに
日々を
過ごしているらしかった。
そんな
極度の
人見知りでありながらも、
少数ながら
気をゆるす
人間にはごく
普通に、
時として
多弁に
語る
姿はなんともいえないアンバランスさを
感じさせた。
(──
変な
女──。きっと
屋敷のなかだろうが、どこにいるのか
見当もつかねぇや……)
さすがに
仕事明けで
疲れているので、
監視を
中断して
休もうと
思ったそのとき、
突然ノックの
音が
響いた。
少し
間を
置いて「
失礼します」と
一言添えて
入ってきたのは、
屋敷に
仕える
使用人たちであった。
さほど
年端はいっていない
新米と
思われる
少女と、ベテランといった
貫禄をかもしだす
召使いの
女たちが、それぞれ
重そうな
衣装ケースを
腕に
抱えている。
彼女らは
巨大な
衣装棚の
扉を
開けると、
淡々と
慣れた
手つきで
衣類を
入れ
替えはじめた。
すると、そのなかでも
一段と
年若い
召使いの
娘が、
服を
手にしてうんざりと
嘆くようにうめいた。
「──ここのお
嬢様って、どうして
似たような
服ばかり
持っているの──?」
衣装ケースも
巨大な
衣装棚のなかも。
黒、
黒、
黒……。
おそらくほんの
少し
細部の
装飾や
丈がちがうだけの、
仕立ての
良い
黒いドレスばかり。
「そんなことも
知らないの?」
たちまち
傍らから、あきれたような
声があがる。
「あんたはここに
来て、まだ
日が
浅いからわかんないのね。お
嬢様はね、
黒い
服にしか
袖を
通さないの。お
父上のクレメンス
様が
見かねて、
目が
覚めるような
美しいドレスを
豊富にあつらえても
見向きもしない。
昔はそんなんじゃなかったのにね。おかしな
話よ」
「なんでも
喪に
服してるからだって
聞いたことがあるわ」
別の
今度は
年かさの
女が
口を
開いた。
「
噂じゃマティルデ
様とセルフィン
様を
亡くしてから、お
嬢様は
黒い
服しか
身に
着けなくなったんだそうよ」
「──じゃあ、
二年前からずっとってこと!?」
すっとん
狂な
声があがるなか、
新入りの
娘だけがいぶかしげな
表情を
浮かべている。
「……
誰なの?その
人たち……?」
しばらく
我慢していたが
限界だった。
女のお
喋りのほとんどは、
彼にとって
下らなく
不快なものだった。
(……ったく、かったるいったらありゃしねぇ……)
その
後も、どうでもいい
会話は
続いていたが、
女たちの
甲高い
声が
耳障りに
感じはじめて、ムスタインはいったん
聴覚だけを
遮断した。
これ
以上、
無意味に
神経を
疲弊させられるのは
御免だ。
(──とはいっても、
久しぶりに
動きがあったんだ。
無視するわけにはいかねぇか……)
召使いたちが
出ていくのを
見計らって、
長いため
息とともに
青年は、
瞬時に
空間を
移動していた。
☆
部屋に
戻ってくるなり、
思いもよらない
来訪者の
姿を
目にして、レクシーナは
驚きのあまり
立ちすくんだ。
黒装束に
身を
包んだ
長髪の
青年は、まるで
彼女が
来るのがわかっていたかのように、
部屋の
中央に
何気ないようすで
佇んでいた。
そしてレクシーナを
視界に
捕らえると、エメラルドグリーンの
瞳をわずかに
細めて、
妖しくも
不敵に
微笑んだ。
「
勝手に
入って
悪かったな。これが
俺の
能力なもんでね。ま、
正門から
堂々と
入れてくれるっていうなら、そうしてやらないこともないけど?」
こともなげにそう
吐き
捨てると、
挑発的な
態度でムスタインは
少女の
寝台に
腰を
掛けた。
寝乱れていたはずのシーツは、
先ほどの
召使いたちの
手によって
皺一つなく
整えられている。
そのことに
安堵を
覚えながら、レクシーナはおずおずと
口を
開いた。
「あなたが
必要としている『
三日月の曲刀』のことなんですけど……」
「やっと
手掛かりでも
見つかったのか?」
「それが、
屋敷の
宝物庫を
探してみても
見つからないんです……。
以前の
所有者である
兄が
亡くなってから、わたしが
目にすることはなくなりました。お
父様に
聞けば
多分わかると
思うんですけど、
所用で
隣国に
出掛けたきりまだ
帰ってきていません」
「だとすると、いったい
俺はいつまで
待ちぼうけを
喰らわなきゃなんねぇの?」
「す、すみません……。わたし
一人ではどうにもならなくて……」
レクシーナは
小柄なからだをさらに
小さくさせると、
萎縮したように
深くうなだれた。
(──ったく……!この
調子じゃいつになったら
宝刀が
手に
入るんだか……。こっちは
悠長にしてる
場合じゃねえってのに、この
女ときたら
日がな
屋敷にこもって
優雅に
暮らしやがって……)
軽く
舌打ちすると、ムスタインは
不機嫌そうに
周囲を
見まわした。
任務明けの
疲労をおしてわざわざ
訪れたというのに、このままなんの
実入りもなく
帰るのでは
割に
合わない。
すると、
素早く
動かした
視線の
片隅に、ふと
窓際に
置かれたティーテーブルが
目に
映った。
三段もある
優美な
陶器のケーキスタンドには、
上から
焼き
菓子、
果物、サンドイッチと、
食指をそそる
豊かな
食材が
彩りよく
盛られていた。
「お、
意外と
豪勢で
美味しそうじゃん」
それを
目にしてめずらしく
機嫌の
良い
声が、とうとつにムスタインの
口からこぼれ
出た。
普段は
皮肉げに
細められていたりするその
瞳が、
今は
純粋な
輝きを
放っていた。
見かけによらずというか、こう
見えて
青年は
極度の
甘党らしかった。
(……この
人、お
腹が
空いているのかしら……?)
彼のようすを
眺めていたレクシーナが、たまりかねて
救いの
手をさしのべた。
「……あの、
召し
上がりたかったら、どうぞ……」
「じゃあ、
遠慮なく」
ティーテーブル
脇の
椅子に
堂々と
腰かけると、レクシーナが
啞然としている
前で、
彼は
一心不乱に
目の
前の
食物を
平らげていった。
よほど
空腹だったのだろう。
だが、
無心にがっついているようでいて、
食べ
方にはどことなく
品がある。
貴族の
目から
見ても
不思議と、ムスタインは
最低限のマナーは
心得ているのだった。
「あんたは
食べないの?まったく
手をつけてないようだけど」
ふいに
声をかけられて、
少女はすこし
動揺した。
「わたしはあまり……」
「
俺がいると
緊張する?」
見透かされたような
言動にどきっとする。
「ま、
小鳥を
助けたくらいで
家宝をせびるような
男は、
信用できなくてあたり
前か……」
「そんな!コザリーの
命にくらべたら、
曲刀なんて……!あなたに
譲ることでお
礼ができるなら、わたしはそれで……いっこうにかまいません!」
「あんたがそれで
良くても、
親父さんが
反対するかもよ?」
レクシーナはすこし
良心が
痛むのか、わずかに
苦しそうな
表情をうかべたが、ややしばらくして
決意を
固めたようだった。
「……たぶん、
父はそれほど
関心がないはずです……。
兄に
譲ったときもそんな
感じでしたから。
父は
二人の
兄とくらべても
剣術はたしなみのようなもので、
武器そのものに
執着はなさそうですから」
「そう。ならいただいていくけどさ」
ムスタインがいることに
気づいたのか、
鳥籠のなかの
青い
小鳥が
機嫌よくさえずりはじめた。
普段、あまり
人には
懐かない
気むずかしい
鳥なのだが、
不思議とこの
青年には
懐いているようだ。
(やっぱり、
命を
救われたからかしら……?コザリー、あなたはこの
人のこと、どう
思う?)
少女は
鳥籠から
目をそらし、そっと
彼の
背中を
見つめた。
(……
不思議な
人……。
良い
人のようで
悪い
人 だったり、ちょっと
怖い
時があったり。でも
気にかけてくれたり……。なんていうかつかみどころがない……)
極度の
人見知りで、
他者がおなじ
部屋にいると
気づまりなことが
多いのに。
彼女は
戸惑いながらもいつの
間にか、
青年がいることを
受け
入れさせられてしまっているのだった。