「……やっぱり、まだ
痛い?」
肩をすくめてアナベルはそうたずねると、
視線を
落とし
右腕の
包帯にそっとふれた。
心の
底から
心配しているような
声音だった。
包帯にふれた
指から
彼女の
想いがじんわり
伝わってきて、ロジオンは
胸を
打たれた。
からだの
奥から
愛おしさがこみあげてくる。
「いや、もう
痛みはほとんどないよ。アナベルが
一生懸命、
看病してくれたおかげかな」
照れくさそうにロジオンは
感謝の
言葉を
口にした。
「……よかった」
心からの
称賛の
言葉をもらって、
彼女ははにかんだような
笑顔を
浮かべた。
「この
分なら、
明日にはすっかり
良くなってると
思うよ」
平気なことを
証明してみせるために、
右腕を
曲げたり
伸ばしたりして
動かしてみせる。
すると、ふいにアナベルは
真顔になり、
懇願するようにロジオンの
瞳を
見つめた。
「あたしもついて
行っちゃだめ?『エレプシアの
乙女』の
契約を
交わしましょう。
今からでも
遅くはないわ。そうすればあなたの
力になれる……!」
二人の
視線が
一瞬、からみ
合うように
交錯した。
少女のひたむきなまでにまっすぐな
想いにふれて、ロジオンは
無条件で
心を
揺さぶられずにはいられなかった。
(……アナベルは、
僕の
心の
痛みを
少しでも
和らげるために、
自ら
危険に
飛びこむことも
承知で、
僕に
寄りそってくれようとしている……!)
つかの
間、
深い
感動から
彼は
言いようのない
幸福感に
満たされた。
だが、こみあげてくる
想いをわざと
遮断するかのように、
少年はきつく
両目をつぶると
唇をぎゅっと
引きしめた。
(いつまでも
君のそばにいたい……!でも、だからこそ……
君を
危険にさらすわけにはいかないんだ。
君は
僕の
大切な
人だから……)
愛する
人とともに
歩みたい。
そんな
切実な
想いをふりきってでも、
守りたいものがある……!
少年は
奥底に
眠る
欲望を
押しのけるようにして、
目の
前に
舞い
降りてきた
幸運を
遠ざけた。
☆
昔からロジオンは
大切なものほど、
宝箱にそっとしまっておくくせがあった。
ときどき
思い
出したように
蓋を
開けて、
愛しそうにながめることはあっても、それだけで
満足してふたたび
戸棚の
奥深くに
隠してしまう。
彼にとって
大切なものとはすべて、
繊細な
硝子細工のようなものでできているのかもしれない。
その
儚さゆえに、
宝物を
傷つけることを
極端におそれ。
自ら
破壊する
危険をおかしてまでふれようとはせず、
臆病な
少年はただ
愚直なまでに
大切に
大切にしまっておくのだ。
およそ
恋愛というものに
不器用な
彼の
選択肢はいつだって
一つだけ。
愛する
者ほど
自分から
遠ざけてふれないようにするのだ。
そして
自分の
心にあえて
蓋をし、
厳重に
鍵をかけて
閉じこめてしまうのだ。
☆
「ありがとう……。その
気持ちだけで
僕には
充分すぎるくらいだよ」
それまで
不安でうつむいていたアナベルは、その
言葉を
耳にして
弾かれたように
顔をあげた。
ロジオンを
見つめる
瞳が、
期待で
濡れたように
光っている。
「あなたのそばにいさせて……」
自然に
呼吸をするように、
彼女がそっとささやいた。
美しいものに
触れると、いつもぎこちなくなってしまう。ロジオンはたどたどしくアナベルの
手に
指をからませた。
「
僕のこと
忘れないで……でも、
君のためだ。
忘れてくれ……」
少年は
真摯なまなざしで
少女を
見つめると、
小声で
何事かをささやいた。
刹那、
開いた
窓から
吹きつける
風の
音が、
無常にもすべての
言葉をかき
消していった。
きっと、
彼女の
記憶の
残滓にも
残らないだろう。
しかし
告げるべきことは
告げたのだ。
たとえその
耳に
届かなかったとしても……。
これから
自分がしようとすることを
考えるだけで、
彼ははり
裂けそうなほど
胸が
痛んだ。
(
僕が
君にしてやれることは、これしかない……!
理解してくれ、アナベル。ただ
君を
守りたい。それだけが
僕の……)
ロジオンは
意を
決したように
瞳をつぶると、アナベルの
想いを
置き
去りにしたまま、
今や
忘れ
去られつつある
古代の
秘法を、
一語ももらさずに
思い
起こした。
「……ロジオン?」
不安そうに
見つめる
少女の
瞳を、
彼はもう
一度まぶたに
焼きつけるように
見つめ
返した。
『……エンシェント・ルーン第六篇・忘却の魔法円』
まるで
厳かな
儀式のように、いにしえの
呪文を
彼は
口ずさんだ。
【 永久に記憶を呼び起こさぬように、汝が望む者の心を忘却の彼方にいざない封印する。その扉は奇跡あらぬかぎり永劫に開くことはない 】
「………………………」
唱え
終わったとたん、アナベルの
瞳から
急速に
情熱の
色が
失せてゆくのがわかった。
消え
入りそうなほどせつない
表情で、その
姿を
見守っていたロジオンは、
彼女の
頬に
触れると、
最後に
言い
聞かせるようにこう
告げた。
「これで
必要以上の
僕の
記憶はすべて
無くなる。
僕のことは
忘れるんだ……いいね?」