虚ろな
眼で
牢獄の
天井を
見上げる。
鉄格子がはめられた
小さな
灯りとりの
窓から、わずかに
光がもれていた。
自分の
人生はろくでもないことばかりだったと、
思わず
神を
毒づきたくなった。
強打されたあごを
苦痛にゆがめながら
動かし、とぎれとぎれに
言葉を
吐き
出す。
だが、
口から
自然にこぼれだしたその
言葉は、
本人にとっても
意外なものだった。
「………
生き……たい………」
とっさに
発した
言葉に、
自分でも
動揺を
隠せなかった。
それまで
死の
衝動におそわれることはあっても、
生に
意味を
見い
出すことなどほぼ
皆無だったのだから。
「……
死んで……たまる……か……ってんだ………」
気づくと
頬が
濡れていた。
信じられないことだったが、
泣いたのは
後にも
先にもこのときだけだ。
無情にも
彼が
横たわる
石の
床に、
紅い
血だまりが
広がってゆく。
やがて
視界がかすんで
意識がもうろうとしてきた。
刻一刻と
迫りくる
死の
宣告──
だがその
陰で、
彼のまわりで
不可思議な
現象が
起こりつつあった。
流した
涙と
血液が
溶けあったとき、フォルトナから
見放された
少年に、
慈悲の
光が
降りそそいだ。
血と
涙の
融合──
自らの
血液を
媒介にして
床に
浮かびあがったのは、まごうことなきフォルトナの
魔法円。
居眠りしていた
看守さえ
飛び
起きるほどの、
膨大な
光の
柱が
立ち
昇り
牢獄をつつみこんだ。
やがて
翠色の
光に
縁どられた
魔法円の
中央に、
少年は
生まれ
変わったような
姿で
立っていた。
身体には
傷ひとつなく、
折れた
骨も
失った
血液さえも
元通りになっていた。
それまで
本人に
使う
意志がなかったために、
閉ざされていた
開かずの
扉。
ムスタインは
『治癒の魔法円』の
能力に
目覚めたのだ。
(……この
力をつかって
罪滅ぼしでもしろっていうつもりか……?)
ムスタインは
舌打ちした。
(いらねぇいらねぇ。こんな
力はいらねぇ──)
鬱屈としたいらだちは
頂点に
達していた。
皮肉にも
彼が
得た
能力は、
真に
望んだ
攻撃魔法とは、もっともかけ
離れたものだったからだ。
うちに
秘めた
破壊衝動が
抑えがたくなってきていた。
日毎身体を
酷使して
鍛えてはいたが、
肉弾戦にはおのずと
限界がある。
だが、
高位の
聖職者すらしのぐほどの
治癒能力。
それを
知っていて
誰もが
放っておくはずがなかった。
彼の
持つ
神秘の
力にあやかろうと、
怪我や
病を
抱えた
信者たちが
群がるようになった。
自身にはなんら
障害のない
胸くそ
悪い
連中にも、
命を
救ってほしい
妻子や
愛人、
友人や
親類縁者がいて、それらを
片っぱしから
救うことで、ムスタインは
自分の
地位を
確固たるものにしていった。
殺したくなるほど
憎いお
偉方にも
恩を
売るだけ
売って、その
功績で
若くしてネペンテスの
司教の
地位までのぼりつめたのだ。
すべては
司教に
与えられる
『刑具、灰燼の鎌』を
手に
入れるために──
それさえも
単なる
布石でしかないのだが……。
☆
『三日月の曲刀』──は、ムスタインが
今もっとも
入手したい
宝物の
一つだった。
そんな
代物がよりによってこの
屋敷に
存在するとは、
運命とは
皮肉なものである。
──ルンドクイスト
家。
最果ての
小国と
揶揄されることも
多い
辺境、デルスブルクの
領主の
一族。
目の
前にいるのはその
直系の
娘で、
優男とは
腹ちがいの
妹という
関係にあたる。
貴族の
娘にしては
地味な
印象だが、
控えめな
服装や
彼女の
乏しい
表情のせいもあるだろう。
(
冴えない
女……。まるで
生きながら
死んでるみたいだぜ)
ムスタインは
硝子玉のような
少女の
瞳をぼんやりと
見つめた。
それでも
権力者に
侍って
媚態を
浮かべ、いつなんどきでも
白粉にまみれた
香水くさい
牝犬よりはマシかもしれない。
名前はたしか……。
「──お
嬢様!レクシーナ
様!いらっしゃいますか?」
扉をへだてた
通路側から
使用人らしき
者の
声が
聞こえる。
レクシーナと
呼ばれた
少女はハッと
身体を
震わせると、とつぜんの
誰何にうろたえたように
落ち
着きなく
視線を
泳がせた。
もともと
蒼白いその
顔には、
彼に
対する
怖れと
困惑が
如実にあらわれていた。
助けを
呼ぶのか、なにごともなかったようにとりつくろうのか──
はっきりしないそのようすは、
無性にムスタインをいらだたせた。
(だが、
悲鳴をあげられちまったら、
困るのは
俺のほうか……)
怒鳴りつけるのは
得策ではない。
彼は
黙って
怒りをやり
過ごした。
声を
出したくても
出せないのだろう。
少女は
怯えたような
戸惑いの
表情をうかべて、こちらの
動向をじっと
見つめている。
(そろそろ
潮時だな……)
肩に
乗っていた
小鳥に
触れながら、さりげなく
口内で
契約の
文言を
唱える。
あらかじめ
指に
装着していたのは、
動物を
使い
魔にするための
魔法の
指輪だった。
しょせん
道具の
力なので、
短い
間しか
効果はない。
だが、それでも
自分の
使い
魔として
利用するために、そしてこの
娘を
監視するために……。
すっかり
奴隷のような
服従したまなざしを
向ける
小動物を、あやしまれないように
素早く
片手でつつむ。
そのまま
無言で
娘の
手をとり
指にのせてやると、
小鳥は
名残惜しそうに
短く「ピュイ」と
鳴いた。
少女がなにか
話しかけようとして、わずかに
口を
開きかけた──
──
刹那、
青年の
姿はこつぜんと
宙にかき
消えていた。