コツン……コツン……コツン……。
靴音が
石の
床に
反響して、
不安で
寂しげな
音色を
立てている。
(あたしはなんでこんな
場所まで
逃げてきてしまったんだろう……?)
アナベルはうす
暗い
地下都市の
通路を、あてもなく
一人さまよい
歩いていた。
最初はわけもわからず
無我夢中で
駆けていたせいか、
大聖堂からほぼ
一直線とはいえ、かなり
離れた
場所まで
来てしまっていた。
静寂に
包まれた
石造りの
回廊をひた
進むと、
行く
手に
巨大な
石室らしき
空間が
見えてきた。
とりあえずそこまで
行ってみようと
決意して、その
奥に
目をこらすと
彼女は
息を
飲んだ。
古びた
棺桶の
山が
幾層も
積み
重なって
立ち
塞がり、
彼女の
視界をさえぎっている。
朽ち
果てた
墓場のようなおぞましい
光景に、アナベルはうす
気味悪さを
覚えて
身震いした。
急激に
襲ってきた
後悔と
心細さのあまり、
彼女は
期待をこめてちらりと
背後をふり
返った。
誰も
追ってきていないのを
確認すると、
失望のあまり
肩からため
息をついた。
(こんなときに
追いかけてきてもくれないのね……)
なんとも
頼りない
相手に、
自分は
恋に
落ちてしまったようだ。
とはいえ、
彼は
先刻まで
手遅れになるほどの
深手を
負い、
命の
危機に
瀕していたのだ。
すぐに
駆けつけることができるほど、
彼の
容態も
回復していないのかもしれない。
そう
思うと、いくら
衝撃的な
場面に
立ち
会ってしまったとはいえ、ロジオンの
無事な
姿を
確かめもせずに
飛び
出してきてしまったのは、あまりに
軽率で
無神経な
行動だったといえる。
(……だけど、ようやく
戻ってきた
第一声があれじゃあ
幻滅もするわよ……)
意識をとり
戻したロジオンが
放った
唐突な
愛の
告白。
向けられた
相手は
自分ではなく、その
場にいたもう
一人の
女性だった。
だが、
衝撃を
受けながらも
意識の
底では
理解していたのだ。
それが
自分に
向けられたものであると。
(……だって、あたしは
知ってる……。
今までの
彼の
想いも、なにげない
彼の
仕草もくせも、
特徴も……あたしは
知ってるんだもの……)
彼の
利き
手が
左手だということにも、とっくに
気づいていた。
なんということもない。
食事中に
隣の
席にいるロジオンと、
肘がぶつかったのだ。
何度かぶつかれば
違和感にも
気づく。
注意してみると
彼はナイフやスプーンに
限らず、
杖や
筆記具も
左手で
握っていた。
あの
時もたまたま
左側に
寄り
添っていたグランシアの
手を
握ったのだとしたら。
まだ
視界の
効かないうちに
無意識に、
利き
手でつかんでいたのだとしたら。
あの
言葉はまちがいなく
自分に
向けられたものだったのだ。
だけど──
(あたしはその
間違えたことがゆるせなかったんだわ……)
つくづく
自分は
狭量な
人間だとうんざりする。
あのまま
理由もなくわきあがってくる
嫉妬や
怒りや
混乱などの
感情。
そのいっさいがっさいすべての
感情に、
栓をしてがまんして
居座っていれば、その
忍耐力さえ
自分にあれば……。
いまごろ
事の
顛末を
知ったロジオンは、あわてて
彼女に
失言を
詫び、きっと
瞬く
間に
誤解は
解けていたのではないかと
思うのだ。
「……あたしって、どうしようもない
馬鹿ね……」
彼女は
一人つぶやくと、
来た
道を
引き
返したくなる
誘惑にかられつつ
前に
進んだ。
☆
昔、めずらしく
屋敷に
滞在していた
女がこんな
話をしていた。
「
捕まえられちゃったらもうそこでおしまいなのよ。だから
上手にかわさないとね」
生活感のない
白魚のような
指先が、
熟れきった
果実をつまんだ。
およそ
労働とは
無縁の
女特有の、
傷ひとつないぬらりとした
手。
「……それが
恋の
駆け
引き?なんだか
追いかけっこみたい」
亜麻色の
髪を
三つ
編みに
結った
姉が、まだ
幼さの
残る
口ぶりで
意見をのべる。
「そうね、
子供の
遊びに
似ているかもしれないわ。
無邪気でちょっと
残酷な
恋のお
遊戯。いくつになってもそんな
幼稚な
遊びに、
凝りもせず
夢中になれるなんて、
大人も
馬鹿みたいよね」
少女はまだ
幼すぎて
意味はよくわからなかったが、なにか
母親として
不誠実なものを
嗅ぎとってしまったようで、かすかな
不快感が
残った。
そうして
女は
突きつけられた
離縁状にサインひとつせずに、
豪華客船に
乗りこんで
各地を
放浪し、やがて
帰ってこなくなった。
当初は
金持ちの
有閑夫人たちとの
豪遊だった
船旅も、いつの
間にか
様相を
変えていた。
父親とはちがう
男にしなだれかかり、
蕩けるような
熱い
視線を
浴びせる。
逢うたびにいつも
違う
顔立ちの
愛人を
傍にべったりとはべらせて、
勝ち
誇ったかのような
微笑を
満足げにうかべる。
娘たちの
前で
生々しい
女としての
性をむき
出しにして、
悪びれることもないその
姿に、アナベルは
臓腑の
底から
嫌悪を
覚えていた。
こんな
女にだけはなりたくないと、
少女は
決意を
固める。
永遠に
女のままで
生き
続けようとする、
彼女の
母親のようには。
(それなのにあたし……ロジオンの
気を
引こうとして、こんな
所まで
逃げてきたんだわ……)
女の
見本として
忌むべきあの
女に、
無意識のうちに
行動が
似てきている。
その
事実に
愕然とする。
同じ
轍を
踏まないためにも、もっと
自分の
心に
素直にならなくてはいけない。
それなのに──
(
前に
進もうとする
足が
止まらない……なんでなんだろう?)
目の
前には
不気味な
棺を
積み
上げた、
陰鬱な
空間が
広がりをみせている。
好奇心旺盛な
少女もたちまちひるませてしまうような、
石造りの
殺伐とした
地下墓所。
意外にもオカルト
好きな
姉に、
面白半分にからかわれた
経験があるせいか、アナベルは
怨霊のたぐいに
弱かった。
気まずいけれど、いっそのこと
引き
返してしまいたい。
ロジオンやグランシアのいる
場所に。
それなのにどうして、この
足は
止まらないのだろう。
なにより
背後をふりむくのを
怖れているのだろう……?
少し
前から
彼女は、こちらに
近づいてくる
足音に
気づいていた。そして……
「……アナベルッ……!!」
せっぱつまったような
叫び
声が
響く。
同時に
走りづめで、
息が
切れたような
乱れた
呼吸音も。
まだ
身体が
本調子ではないのだろう。
少年は
片手を
壁につけてもたれかかると、
吹き
出る
汗で
金糸の
髪が
張りついていた
額を
手の
甲でぬぐった。
その
名を
呼んだにもかかわらず、
目の
前で
立
ちすくむ
少女はふり
返りもしない。
少女は
数秒のためらいののち、
薄暗い
石室のなかに
駆けこんでいった。
「──
待って!お
願いだから
話を
聞いてくれ──!」
追いすがるようにして、
少年が
少女に
続く。
その
空間には
見覚えがあった。
『
屍の
怨霊グロリオーザ』の
司教サルヴァルと
司祭コーネリア、そして
大量の
生ける
屍たちと
戦いを
交えた
場所。
(そういえばここでラグシードたちと
別れたんだ……。とっくに
彼らの
決着はついているはず。もしサルヴァルたちが
勝利したなら
即座に
教主のもとに
駆けつけている。そうできなかったということは、たぶんラグシードたちが
阻止したんだ。でもその
後二人はどこにいったんだ?もしかして
相打ちにでもなって、まだこの
場所に
倒れているなんてことは……!?)
背筋が
凍るような
思いがして、
狼狽しながら
周囲を
見まわす。
大量の
生ける
屍は、
司教たちの
見せた
幻だったのだろうか。
すでに
死骸はなく、
空の
棺桶が
山となってうず
高く
積まれている。
床に
血痕がところどころ
残ってはいるが、
彼らが
倒した
死霊の
数とはまるで
一致しない。
心当たりがあるとすれば、
教主にとどめを
刺したときに
放たれた
聖なる
光。
その
清らかな
光が
大聖堂だけではなく、
地下都市全体を
清めたのかもしれない……。
「どこを
探してるの……?」
こちらを
咎めるようでいながら、どこか
虚ろな
声がすぐそばで
響いた。
ロジオンは
反射的に
彼女の
腕をつかもうと
動き……むなしく
空振りした。
「……どうして
逃げるんだよっ!?
怒ってるんだったら
謝るよ……だからっ」
「……
嘘つき……!」
「だからさっきから
言ってるだろ。
話を
聞けって!
君はかんちがいしてるんだよ……!」
「そんなことは
知ってるわ……」
「じゃあなんで
逃げるんだよ!
意味がわからないよっ!!」
「だって、こうでもしないとあなたの
愛を
確かめられないから……っ!」
「アナベル……!」
「
自信がないの。
不安なのよ……!また
置いてかれるんじゃないかって」
彼女の
脳裏にまたたく
間に
遠い
日の
情景がうかぶ。
これから
出航してゆく
帆船が、
太陽を
背にうけて
巨人のような
影を
港に
落としている。
巨大な
客船は
風を
帆にはらんで、
空と
海、
二つの
境界線上で
不安定にゆれている。
空の
青と
海の
青。
どちらもぬけるように
青いのに、この
二つの
青はけして
混ざらない。
空も
海も、
永遠に
交わることはない。
その
事実が
幼い
少女を
不安にさせる。
無意識のうちに
反発しあう
両親のことを
連想させるからだろうか。
すぐ
戻ってくるわとその
女は
言った。
旅先でもあなたのことをずっと
見守っていると。
口先だけの
甘い
言葉をお
守り
代わりに、
少女は
成長し、やがて
恋をする
年頃になった。
その
少年は
少女を
守るために、
記憶を
封印してまで
彼女を
遠ざけようとした。
早く
戻ってきてと
追いすがる
少女を
置き
去りにして、
少年は
意識不明の
姿になってようやく
戻ってきた。
命を
落としてしまったら、
永遠に
戻ってこれなくなるというのに。
もう
言葉だけでは、お
守り
代わりにはならない。
少女は
問いかける。
どうして
愛する
人はあたしを
置いて、
平気でどこかへいなくなれるの?