それは
膨大な
星の
光の
渦だった。
光に
埋没してゆく
感覚とともに、
少年は
時をさかのぼっていた──
(なんだろう……この
感覚……ひどく
懐かしい……)
そこには
見慣れた
庭園が、
視界に
悠々と
広がっている。
おそろしく
世界が
大きく
感じるのは、
自分の
背が
縮んでしまったせいだろう。
「かあさま……。にいさまがぼくのたいせつなおもちゃかえしてくれないの……!」
三歳になったばかりのロジオンは、
舌足らずな
声で
椅子に
腰かけた
義母に
呼びかけた。
(そうだ。かすかに
覚えている……。このとき
僕はまだ、マティルデ
義母さんのことを
本当のお
母さんだと
思っていた……)
「ほんとうに
悪いお
兄さまね……
少し
叱ってやらなくては……」
眉根を
寄せてため
息をこぼしながら、
義母は
膨らんできた
腹部を
守るように、
手をあててゆっくりと
立ち
上がった。
このときすでに
腹違いの
妹、レクシーナを
胎内に
宿していた。
(レクシーナ……
僕の
妹……。
兄さんと
義母さんを
亡くしてから、
屋敷に
引きこもるようになってしまった。かわいそうなレクシーナ。ぜんぶ
僕のせいだ……)
まだ
幸せだったころの
家族の
想い
出。
自分だけが
異質な
存在だということに、
気づかないでいられた
幼い
日々。
砂上の
楼閣のように、もろく
儚い
幻想。
幸福だった
日常が
崩壊するとき──
きっかけはいつだって、ささいな
一言からはじまる。
「ねぇ、どうしてかあさまはにいさまのことはしかるけど、ぼくのことはしからないの……?」
それは
子供のどうということもない
素朴な
疑問のはずだった。
だが、その
言葉が
発せられるやいなや、
急におそろしいほどの
静寂が、
少年のちいさな
世界を
支配した。
あきらかに
義母が
動揺しているのが、
幼心にもひしひしと
伝わってきた。
ときとしてなにげない
一言が、
運命を
決めるスイッチを
押してしまうことがある。
少しの
逡巡のあと、
義母は
決意を
固めたように
静かな
口調で
告げた。
「
前から
言おうと
思っていたのだけど……。
私はね、あなたの
本当のお
母さまじゃないの」
ロジオンは
意味がわからずぼうぜんとしていたのだろう。
幼さゆえに、なにも
言えずに
棒立ちになっていた。
「だからあなたには
遠慮しているの。だって、
血がつながっていないのだから……」
義母の
口からそれまで
封じ
込めていた
言葉が、
堰を
切ったように
次々にあふれだした。
「あなたのお
母さまはね、あなたを
産んで
死んでしまったの。
私から
夫をうばった
罰……!」
「かあさま……?」
「
何度言わせるの?
私はあなたのお
母さまじゃないのよ……」
それまで
聞いたこともないような
義母の
声だった。
突き
放されたことで、
初めて
彼はさとった。
「セルフィンに
大切なおもちゃを
取りあげられて、あなたは
悲しかったでしょう?
兄さまをうらんだでしょう?
私もおんなじ。あなたのお
母さまに
大切なものをとられて
苦しかったの。
恨んでいるの……!
恨んでも
恨みきれないくらいに」
心の
深い
場所に、ずんと
響いてくる
真実の
重さが
少年を
襲った。
自分が
望まれた
存在ではないという、それどころか
恨まれてさえいるという
罪人の
烙印を。
「あなたのお
母さまはとっても
意地悪なことをしたのよ」
とどめを
刺されたように、ロジオンは
草むらを
駈けだしていった。
目の
前から
遠ざかってゆく
少年を、マティルデは
引き
止めることもなく
見送った。
──
残酷すぎたかもしれない。
でも、それはいつか
知る
出生の
真実であり、
変えられない
宿命でもある。
(
僕の
罪の
意識は、あのとき
初めて
植え
付けられたのかもしれない……。
生前、
義母さんが
本心をさらけ
出したのは、あれが
最初で
死ぬ
間際が
最後だった……)
数分後、
息を
弾ませ、
庭に
生えた
大樹の
根元から
引き
返してきたロジオンは、けんめいに
義母の
姿を
探した。
幼心に、
傷ついた
胸の
痛みや
悲しみは
消えなかった。
だが、それ
以上に
彼には、どうしても
義母につたえなければいけないことがあった。
(そうだ、
覚えてる。あのときのこと……
僕は
真実から
逃げ
出したんじゃなかった……!)
そして
駈けずりまわった
果てに、ようやく
見つけた
義母の
後ろ
姿。
そこには、
深い
悲しみがはりついていた。
彼女はうちひしがれていた。
よわい
自分に。
なにより
他人をゆるせない
自分に。
ただひたすらに、
息子を
傷つけた
自分に。
もうずいぶん
長い
間、
彼女は
自分で
自分がゆるせなかった。
その
罪の
意識の
重さ……。
見知った
家族におとずれた、
微妙な
異変を
嗅ぎとったのだろう。
その
場に
駆けつけた
少年は、ひるんだように
立ちすくむ。
一瞬にして
年老いたようなその
背中に、
少年は
勇気を
振り
絞って
声をかけた。
「かあさま……これあげる……」
小さな
手のひらに
握られた
銀のロザリオ。
太陽の
女神の
祝福がこめられた
十字架。
マティルデの
瞳が
見開かれる。
家族の
誰よりも
信心深い
彼女だった。
教会でひたむきに
祈る
姿が
美しかった。
「ぼくね、いちばんたいせつなものは、だれにもとられないようにひみつのばしょにかくしてるの。だからぶじだったんだ。……ぼくのたからもの。かあさまがいじわるされたなら、ぼくはやさしくする。ぼくはやさしいこになる。だからなかないで……なかないでかあさま……」
☆
マティルデはいっさいの
抵抗も
見せず、ひと
思いに
剣で
胸を
刺しつらぬかれていた。
白い
頬に
一筋の
雫をしたたらせ、その
顔は
微笑んでいるようにも
見えた。
主をうしなった
黒曜石の
祭壇に、
瞬く
間に
亀裂が
走り、こなごなに
砕け
散った──
教団の
象徴であった『
黒い
蛇』のレリーフが、
音もなく
崩れ
去った。
セルフィンと
戦っていた
二匹の
大蛇が、
雄叫びを
轟かせ
光の
中に
埋没し
消滅した。
胎内のようにピンク
一色に
埋めつくされた
大聖堂が、
瞬く
間に
白く
清められてゆく。
(……
義母さん……?)
ふいに
修道女から
飛び
出した
小さな
光。
もと
教主であり、ひとりの
母親だった
女の
魂。
その
光は
天高く
翔け
登ると、
空に
吸いこまれるように
消失した。
明けの
明星に
照らされて、
金色の
髪を
持つ
少年が
一人静かにたたずんでいた──
結界が
解かれたことに
気がついたアナベルは、
急いでロジオンのもとへ
駆け
寄った。
目を
細めて
地底に
開いた
穴から
天空を
見上げると、
彼は
過去を
顧みるようにつぶやいた。
「これで……よかったのかな……」
「……あなたはお
義母さんの
魂を
救ったのよ……」
ロジオンのまっすぐな
碧い
瞳を
受けとめると、
励ますようにアナベルが
言った。
「……それと、
命を
懸けて
守ってくれてありがとう」
乙女は
花の
精のように
微笑むなり、
愛しい
少年の
腕の
中に
勢いよく
飛びこんでいった。
抱きつかれたロジオンは
動揺し、
硬直すると
赤面したまま
声も
出せずにいた。
なつかしい
陽だまりのような
匂いが
鼻腔をくすぐる。
深呼吸して
気持ちを
落ち
着かせると、
今度はしっかりと
彼女を
抱き
締めた。