「
俺の
名前なんか、
聞かないほうが……。そのほうがあんたの
身のためだよ」
限界まで
甘く
蝕むように、その
人はわたしの
心の
不可侵領域に
侵入してきました。
このままでは、いけない──
彼を
野放図に
自分の
前で、
好きなように
君臨させていてはいけない。
そう
頭ではわかっているのに、わたしは
彼をあまやかしてしまいました。
青年は
変幻自在で、たわむれに
現れたり
消えたりして。
手のひらの
上で
踊るわたしを、
困らせて
楽しんでいるようにも
見えました。
だから、わたしは──
追いつめられた
獲物になった
気分で、どこか
怯えながらも
一緒にいるときは、
不思議に
暗い
高揚感をおぼえていました。
わたしはすっかり
変わってしまった──
名前も
知らない『
彼』と
出逢ったあの
日から。
あの
日。あの
日もわたしはあらゆることから
逃れようとして、
故郷である
最果ての
城塞に
閉じこもっていました。
たとえばそれが
悪者に
幽閉されている
身の
上ならば、
殿方にとっては
素晴らしく
魅力的な
娘に
見えたことでしょう。
でも、わたしは
自ら
望んで
壁の
中にとどまり、その
場から
一歩も
踏み
出そうとはしなかった。
傷つきたくないばかりに──
慎重に『
心の
扉』に
鍵を
掛けて。
隙のないように──
喪服を
連想させる
質素な『
黒い
服』に
身を
包んで。
気持ちのうえだけでも──
『
誰一人』
立ち
入らせないようにして。
囚われの
姫君を
救う
王子様も、あきれ
果てて
立ち
去ってしまうほどの
頑固さで、わたしは
日常を
流されるように
生きていました。
わたしが
恵まれた
身の
上でいなければ、とっくにどこかで
野垂れ
死に、この
命はとうにつき
果てていたかもしれません。
若くして
世捨て
人のようなわたしの
前に、あなたはとつぜん
彗星のようにあらわれました。
真昼なのに
深夜を
連想させる
漆黒のローブをはためかせて、
異国の
旅人である
青年は
絶望していたわたしの
前に、こつぜんと
姿をあらわしたのです。
わたしの
不注意で、
鳥籠から
逃げ
出してしまった
青い
小鳥──
不自由な
牢獄に
閉じこめられていたのは、わたしではなくあわれな
小鳥のほうでした。
自由を
求めて
羽ばたこうとした
青い
小鳥は、
鴉の
襲撃をうけ
血を
流し、
大地に
力つきようとしていました。
そんな
瀕死の
小鳥を
前にして
旅人は、ほかの
人がするように
冷酷に
立ち
去りませんでした。それどころか
奇跡を
起こしたのです──
まるで
神がかったような
幻想的な
翠色の
光が
放たれると、
生死の
縁をさまよっていた
憐れな
小鳥がたちどころに
甦り、それはもう
生き
生きとさえずっていました。
その
奇跡を
目撃して、わたしは──うまく
言葉ではあらわせない
興奮に
包まれました。
まるで
一瞬にして
心が
洗い
清められるようでした。
鴉にいじめられて
傷ついた
小鳥は、ひょっとすると
自分自身だったのかもしれません。
バルコニーの
上でおろおろするばかりだったわたしに、
彼はこともなげに
問いかけました。
「あんたの
鳥?」
それから
彼との
交流がはじまりました。
元気になった
青い
小鳥が、わたしと
青年との
懸け
橋になってくれました。
その
小鳥を
救った
報酬として
彼がもとめたのは、
亡くなった
兄セルフィンが
継承していた
『三日月の曲刀』でした。
彼のために
懸命に
屋敷を
探しましたが、ついに
見つけることがかなわず──
唯一手がかりを
握っているであろう
父は、
隣国の
地に
赴いたまま
未だ
帰らず、
宝刀のありかを
知るすべがなく
今日にいたります。
せっかく
来訪してくださっても、なにも
差し
上げることができないので、せめてもと
美味しいお
茶やお
菓子をふる
舞っていましたが。
そんなある
日──
青年が
聖者のような
行いをしながら、
愚者のような
側面を
持つことを、わたしに
知らしめる
出来事がありました。
あるとき
彼は
血の
匂いを
垂れ
流しながら、わたしの
部屋をおとずれました。
わたしはおそろしくて
尋ねることなどできませんでしたが。なにより
黒装束についた
血の
生々しさが
雄弁に
物語っていました。
さっきまで
彼が、
死体の
傍にいたのだということを──
そんな
人の
来訪を
待ちわびることになるなんて、
転がり
落ちるように
恋に
溺れるようになるなんて、
思いもしませんでした。
彼はいつも
謎めいていて、
目隠しされたまま
漆黒のマントに
抱かれているような
気分になった──
同じ
空間にいるだけでそわそわと
落ち
着かないような、
淫靡で
悩ましい
気持ちにさいなまれます。
「
俺がいると
緊張する?」
ときどき
放たれる
見透かされたような
言動にどきっとします。
でもそれは
後ろめたいけれど
白状してしまえば、
天にも
昇りそうな
心地──
わたしは
正常ではなくなってしまったのかもしれない。そんな
不安定な
感情の
波が
押しよせてきて、たびたびわたしを
追いつめます。
それほどまでにわたしは
変わってしまった。はじめは
見知らぬ
旅人にすぎなかったあなたに、これほどまでに
警戒心を
解くつもりなどなかったのに──
わたしの
心は
魔法でも
使わなければ、
足を
踏み
入れることすらできない。
見えない
高い
壁がはりめぐらされた、いわば
絶対不可侵の
領域です。
でも
不思議なことに
彼は、
自然と
溶けこむように
馴染んでしまった。
頑なだったわたしの
心の
錠前が、いともすんなり
外されてしまったのは。
おそらく──
「
俺の
名前なんか、
聞かないほうが……。そのほうがあんたの
身のためだよ」
つぶやいた
彼の
横顔が、ひどく
孤独に
感じられる
瞬間があったから。
隣りに
座っていて、わたしとおなじ
孤独を
彼も
背負っているような。
孤独を
通してつながっているような
気がしたのです。
名前も
知らない。
教えてもくれないあなた──
彼が
天使なのか
悪魔なのか、そのどちらでもないのか──
未だにわかりませんが。
それでも、わたしはあなたをひとり
待ちわびています。
逢いに
来てくれない
日々が、あなたのいない
日常が
続いて──。
そのせいでしょうか、このところあなたの
姿を
夢に
見てばかりいます。
自分の
気持ちがあまりにも
強くなりすぎて、
自分で
自分がこわくなります。
心の
平衡を
保つのが
精いっぱいで、バランスがとれなくてよろめいてばかりいます。
あなたがわたしの
前に
現れてから、
運命の
歯車が
予想外のほうに
転がってしまった。
転がるだけ
転がって、
地平線のはるか
彼方に
遠ざかってしまいました。
もう
止めることはできないでしょう。
あなたから
残酷な
判決が
下されない
限り、わたしの
恋の
病が
永遠に
癒えることはない。
あなたに
囚われたように
始終恋焦がれているからでしょうか。
目覚めたあと
動悸がおさまらないような、
少しはしたない
夢まで
見てしまうようになりました。
思い
出すと
恥ずかしさのあまり
身が
竦みます……。
一瞬消えてしまいたくなるほど。
でも、
夢の
記憶は
呼吸をくりかえすだけで、
容赦なく
奪われてゆきます。
日々の
暮らしに
埋没しているうちに、どんなに
甘い
幻想も
残念なことにすっかり
忘れ
去ってしまうのです。
わたしはこの
夢を
忘れずに
残しておきたいと
思ったので、
意を
決して
書き
記しておくことにしました。
読む
人によっては
品性を
疑われてもしょうがないような、
奇妙で
不可思議な
恋愛小説のように
感じられるかも。
書いたら
誰にも
見られない
場所に、こっそり
隠しておかなくては………。
☆
『心の空洞を埋める方法を知っている』と
彼は
言っていた。その
言葉があまりにも
印象的だったからでしょうか。
青年はそれから
幾度も
夢の
中にまで
現れて──
流れるような
黒髪をそばに
感じさせるほどの
近距離で、わたしに
甘く
囁いた。
「あんたの
心は
信じられないくらいに
空っぽだから、
俺が
満たしてやるよ」
それには
是非ともあんたの
協力が
必要なんだと
彼はつづけた。
ああ、わたしが
長いあいだ
抱えつづけてきた
孤独の
風穴を、さみしさの
吹き
溜まりを、あなたは
癒してくれようとしている。
夢のなかだったけれど
無性に
感激して、
思わず
彼につめ
寄っていました。
「──どうすればいいの?」
でも
期待と
一緒に
不安もこみあげてきて、わたしの
双眸はゆらゆらと
儚げな
光を
放ちながら、
絶えずまばたきをくり
返していました。
「──どうすれば、いいの──?」
すがるような
視線にその人は、めずらしく
戸惑ったようでした。
「
教えてほしいなら、ちょっとは
落ち
着いてくれよ?」
そんな
風にたしなめられてやっと、
臆病なわたしは
安心することができました。だけどそれでも
勇気が
足りずに、うつむいたまま
懇願しました。
「……あなたに……おしえて、ほしい……。
少し……こわいけど……」
思いきってそう
告げると
青年は、いつもの
悪戯っ
子のようなあどけなさで、ふてぶてしいまでに
不敵な
笑みをこぼしました。
彼は
泰然としたようすを
崩さずに、すっと
人差し
指をわたしの
胸の
上、ちょうど
心臓のあたりに
移動させると、
「ここに
気持ちを
集中させて」
とわたしの
耳朶にくちびるを
寄せてささやいた。
わたしは
頬を
赤らめながら
言われるがまま、
彼の
指先が
触れている
場所に
意識を
向ける。
からだ
中の
血が
心臓めがけて
加速を
増してゆく。
血の
奔流。
凄まじいほどの
血流。
──
狂おしいほどに。
それだけで
自分がどうにかなってしまいそうだった。
「それから……どうすれば……?」
息も
絶え
絶えにその
先をたずねられて、
青年は
愉快そうに
笑いながら
答えた。
「──あんたの
心の
中に、
俺を
入れればいいのさ」
青年はどうってことないさとばかりに、
真上からわたしの
瞳を
捕らえてはなさずにそう
言い
放った。
おだやかな
悪魔のような
視線が、
愉しそうな
光を
宿してわたしを
見下ろしている。
「そうすれば
俺は
優しいばかりじゃないってこと、いやでも
思い
知ることになるぜ。
異物だらけで
心臓から
血を
流すことになるかもしれない。それでもあんたは
耐えられるの?」
わたしは
悲鳴をあげたくなった。
彼に
対する
恐怖から?
──いいえ、そうじゃない。
そうじゃないの……。
だってあなたに
言われる
前に、そんな
事とっくの
昔にしていたからだ。
あなたはわたしのなかにいる。
秘めやかな
心の
扉の
奥深くに……。
そう。あなたはもう
血だらけで、
傷だらけのわたしの
心の
中に
住んでいるんだもの……。
「こわくなった?」
優しくないはずの
彼が、
奇妙に
優しい
声音でそう
問いかける。
わたしは
静かに
首を
左右にふってこたえる。
──いいえ。
こわいけど、こわくないわ。
そこは
誰をも
拒絶する。
わたしの
心の
不可侵領域。
信じられないことだけれど、あなたはそこに
迷いこんだ。たったひとりの
侵入者。
瞬時にわたしの
心を
盗んでいった。
まるで
恋泥棒のような
俊敏さで。
恋の
前ではだれもが
無力になってしまう──
好きな
人を
前にして、その
冴えわたった
支配力にうちひしがれてしまう。
いびつな
形にゆがめられた
迷宮の
奥底で、
心細いようすで
佇んでいる
奴隷のような
少女がいる。
あなたに「
愛して」と
想いを
伝えられなくて、
沈黙を
貫くしかないみじめなわたしがいる。
その
異様ともいえる
熱量がなぜか、
彼の
気を
惹いたらしい──
青年は
貴族のように
手をさしのべて、
甘く
酔わせるような
一瞥をくれるのだった。
「──あんたを
狂わせたくなった。つきあってよ、
俺の
狂想曲に」