「じゃあ、あの
悪天候の
中、
君は
森に
入って
行ったんだね?」
「ええ。そして
天罰が
下りました。あなたがたの
姿を
見失って
森をさまよい
歩くうちに、
帰り
道どころか
時間の
感覚さえわからなくなりました」
「あの
日は
土砂降りの
雨だったから……」
「そのうえ
日中でさえ
薄暗い
森の
中ですから。どれほどの
時が
経過したのか……。
憔悴しきった
私は
放心したように
大木に
寄りかかって
座りこみ、やがて
睡魔に
襲われました。
私の
意識は
朦朧とし、
気づくと
黒装束の
集団に
取り
囲まれていました。……それからのことは、ほとんど
覚えていません」
グランシアは
哀しげに
微笑むと、そっと
視線を
聖堂内にさまよわせた。
「
僕の
義母さんが
悪霊と
取り
引きして、
君の
身体に
乗り
移ったんだ」
「
聖職者でありながら、
恋にうつつを
抜かした
罰です。
心の
隙を
悪霊に
利用されたんですわ」
自らを
戒めるように
厳しい
口調で
告げると、ロジオンに
向かって
真剣な
瞳で
問いかけた。
「あの
後、セルフィン
様は……?」
少年は
一瞬言いよどむと、
困惑を
露わにしたのち
覚悟を
決めた。
「
君は
知らないかもしれないけど……あの
時、
兄さんは……」
「やはり、そうでしたか……」
あらかじめ
予測していたことだったのだろう。
言いよどんだ
言葉の
続きを
察して、グランシアは
気落ちしたようにうつむいた。
そして
慎重に
言葉を
選んでいたのだろう。こちらに
配慮するように
話をつづけた。
「
私としての
記憶はなくても、あなたのお
義母様と
同化してからの
記憶が、ぼんやりとですが
心の
片隅に
残っています。
母親として
無念の
気持ちが、
私にも
痛いくらいに
伝わってきますわ。……お
母様も
私も、
彼を
愛していましたから」
グランシアの
語りを
聞き
終え、ロジオンとアナベルは
肩を
落としてしばらくしんみりとした。
瞬間、ふとした
弾みでロジオンの
脳裏に、
懐かしい
記憶が
甦ってきた。
☆
「
最近、しょっちゅう
礼拝に
行くよね。
兄さんってそんなに
信仰心に
篤かったっけ?」
あれは
兄弟で、デルスブルクの
町を
散策している
時のことだった。
急に
足しげく
教会に
通うようになった
兄を
不審に
思い、つい
弟は
詮索するように
軽い
気持ちで
疑問をぶつけてみた。
単なる
好奇心から
発せられた
問いかけだったが、
思いのほか
兄を
動揺させる
質問だったらしい。
いつもならば
憎らしいくらいに
余裕たっぷりで、どんなきわどい
言葉にも
器用におどけて
対応してみせる
兄だったが、その
時ばかりは
違っていた。
ふいを
衝かれたのか、
溌剌として
大人びて
見えたその
横顔が、
瞬時に
照れくさそうな
健全な
少年の
顔に
変わっていた。
(その
姿が、なぜか
印象的で
憶えていたんだ……)
兄は
春の
陽光が
降りそそぐ
天上をまぶしそうに
見上げながら、みずみずしく
若葉が
芽吹く
新緑の
中、うれしそうに
弟を
振り
返ってこう
答えたのだ。
「
俺の
中の
女神様を
見つけたんだよ」
☆
「……これからは
故郷に
戻り、
自らの
罪をつぐなって、お
二人のご
冥福を
祈りたいと
思いますわ」
二人に
静かに
目礼すると
立ち
上がり、
修道女は
聖堂を
出ていこうとした。
そのグランシアの
背中に
向かって、ロジオンは
大声で
呼びかけた。
「
兄さんは……たぶん、
君のことを
好きだったと
思うよ!!」
白装束が
風にゆれ、
修道女は
胸を
衝かれたように
立ち
止まった。
そして
彼女ははっとしたように
思いをめぐらすと、
静かにこちらに
引き
返してきた。
「……ごめんなさい。
私ったらすこしそそっかしいの。
大切なものを
渡すのを
忘れるところでした」
そっと
彼に
手渡されたのは、なつかしいあの
銀のロザリオだった。
「これはあなたのお
義母さまの
物じゃありませんか?」
幼少の
自分が
義母をなぐさめるために
贈った、
太陽の
女神の
十字架……。
マティルデがずっと
捨てずに
持っていてくれたのかと
思うと、えもいわれず
胸がつまった。
「あなたのお
義母様はきっと、
生きている
間あなたのことを
一生懸命育てていたと
思います。
信じていたからこそ
潔く
刃を
受け
入れた……。
最期の
瞬間、
私と
魂が
入れ
替わるほんのわずかな
時間でしたが、
彼女の
心はあなたへの
感謝と
安らぎに
満ちていましたわ……」
「……………………」
「あなたが
幸せになるようにと、ひたむきに
神に
祈っていらっしゃいました。あの
子は
苦しみをぜんぶ
背負ってしまうから
生きづらいだろうと」
それを
聞いてロジオンは
複雑な
表情をうかべた。
「……
僕は
幸せになる
資格があるんだろうか……?」
なにげなくつぶやいた
言葉に、
彼の
生きざまが
重なって
見えた。
「あなたがそう
望むのなら。あなたには
見守ってくれる
人がいるのですから」
少年の
真摯な
問いかけにも
動じることなく、グランシアはおだやかに
言いきった。
彼の
頭のなかに、すでに
亡くなってしまった
者たちの
面影がうかんでは
消えた。
その
姿は
彼が
生まれてすぐに
息を
引きとった
母親からはじまって、
故郷の
丘の
上でたたずむ
義母、
兄とつづいた。
「
僕のために
犠牲になった
人たちは……ゆるしてくれるんだろうか……」
つぶやいて
天井の
裂け
目から
空を
見上げる。
永遠に
閉ざされた
暗闇にも、やがて
光が
射すように
夜明けが
近づいていた。
あたたかな
白い
光が
暗い
心の
深淵までも
払拭していくようだ。
ふと、
奇跡が
舞い
降りたかのように、ある
言葉がとうとつに
彼の
脳裏に
飛びこんできた。
それは
亡くなった
兄、セルフィンの
最期の
言葉だった。
自分の
犠牲となって
命を
散らした
兄。
彼は
自分をうらんでいるのだと、
心の
奥でずっと
執拗に
思い
続けてきた。
しかし、
本当に
自分をうらんでいたのは、
兄ではなく
自分自身だったのではないか……?
兄と
義母の
命の
重さを
引き
受けて、
生き
続ける
重さに
耐えきれず
逃げ
出した
弱い
自分。
そんな
自分がなにより
自分をゆるせなくて、
自らにかけた
遠き
日の
呪縛。
『こんなに
人を
不幸にした
人間は、
一生不幸のまま
生き
続けなければいけない』
幸福になってはいけない。
まちがっても
自分なんかが、
幸せを
求めてはいけないのだ。
それが
真実なのだと
思い
続けて
生きてきた。
だけど……!
『もっと
幸福を
味わえ、
俺の
分まで……
生きのびろ……』
それは
兄が
自分との
別れ
際に
発した
言葉だった。
彼が
命を
賭けてまで
弟に
伝えたかった
想い。
すっかり
忘れ
去っていたその
言葉を
思い
返して、ロジオンはそれまで
抑えていた
感情が
堰をきったようにあふれ
出るのを
感じていた。
(もう、はじまったときからすでに……ゆるされていたのか……)
こらえきれなかった。
もう、こらえる
必要もなかった。
すがっていもいい、
愛する
人が
傍にいてくれるのだから──
(……
兄さん……。
僕も
幸せになる
資格をもらっても、いいんだよね……?)
「……ロジオン……?」
異変に
気づいたのか、アナベルが
心配そうに
近づいてきた。
その
足音を
聞きながら、
少年は
幸福が
歩いてきてくれたのだと
実感した。
彼はいっさいの
声も
立てずに
泣き
崩れた。
その
身体をとまどいながらも、
少女が
優しく
支えてやっている。
(
神よ。
若いお
二人にどうか
祝福を……)
寄り
添う
二人の
姿を
瞳に
焼きつけると、
修道女は
胸の
内で
祈りをささげた。
叶わなかった
自分の
恋を
懐かしく
思い
出すように
瞼を
閉じる。
やがて
頭を
振ると、
静かにその
場を
去っていった。