「……ほんとうはまだ、
帰りたくはないんだ……
故郷には」
少年はどこか
遠くを
見すえながら、
視線を
宙にさまよわせた。
わずかに
眉間に
刻まれた
小さな
皺。
その
端正な
横顔には、
現在の
複雑な
心境が
見え
隠れしている。
「えぇっ!?あたしは
見てみたいんだけどな。ロジオンの
育った
場所」
あからさまに
落胆したような
声をあげて、
少女は
地面を
蹴った。
庭土が
彼女の
可憐な
爪先をほんのすこし
茶色にそめた。
せっかくのお
気に
入りの
靴が
台なしだ。
でも、そんなことはぜんぜん
気にならなかった。
さわやかな
初夏の
風が
吹きすぎてゆく。
二人は
生垣の
緑がまぶしいマインスター
家の
庭園を
散策中なのだった。
「きっと、ステキなところなんでしょうね……」
うっとりしたような
陶酔の
表情で、アナベルが
胸のまえで
手を
組みあわせていると……。
幻想をぶちこわすような
容赦ない
横槍が
入った。
「──デルスブルクがかい?ここよりずっと
田舎で、
自然にかこまれてる
以外は、とりたてて
見どころのない
小さな
国だよ」
ロジオンは
自分の
故郷について
語るとき、いつもなんとはなしに
消極的でそっけない
言動になる。
そのことがアナベルにとっては、
長いこと
腑に
落ちなかった。
それは
都会育ちの
彼女には、
理解しがたい
心情であるかもしれない。
「
都会ならいいってもんじゃないわ。それに
美しい
自然に
勝るものはないわよ。まるで
世界の
果てみたいな
景観が
広がってるっていうじゃない!」
「……
世界の
果てっていうと、
壮大な
感じがするけどさ……」
ロジオンは
卑屈な
感じで、やや
肩を
落としてつぶやいた。
彼の
故郷デルスブルクは、
実際は
『最果ての地』と
揶揄されるような
辺境の
土地なのだ。
人は
自分の
環境からかけ
離れれば、
離れるほど。
外界から
隔絶された
土地にほど、
言い
知れないロマンを
抱いてしまうのかもしれない。
「とにかくとうぶん
帰るつもりはないんだ。──がっかりした?」
彼女の
機嫌をうかがうように、ちらりとその
表情を
盗み
見る。
思いのほか
少女の
顔は
晴れやかだった。
そのことに
安堵しながらも、
不思議に
思ってじっと
瞳を
見つめていると、
彼女はすこし
照れたように
笑った。
「そりゃあ
訪れてみたかったけど……。ちょっと
心の
準備が
必要かなぁとも
思うし、いつか
連れてってくれる
日を
待ってるとしかいいようがないわ。それに──」
言いかけてアナベルはふいに
立ちどまった。
それにつられるようにして、ロジオンも
立ちどまる。
「あなたが
行くところなら、ほんとうは
何処だっていいの」
真顔ですごいことをさらりと
言ってのける。
こういうところがかなわないよなと、ロジオンはささやかな
喜びを
胸中でかみしめた。
「──お
二人とも、こちらにおいででしたか……」
遠くからかけられた
声に
同時にふり
返ると、
息を
切らしながら
執事であるブライトンが
駆け
寄ってきた。
もう
齢六十五をこえる
老体だったが、
現役を
引退するそぶりさえ
見せず、マインスター
家に
仕える
忠実かつ
老練な
執事だ。
「
当主様が
仕事の
合間に、ロジオン
様にお
目にかかりたいそうです」
執事は
二人の
前に
来ると、うやうやしく
首をたれてそう
述べた。
「きっと、あの
返事だわ……!!」
アナベルが
興奮したように
瞳孔を
大きく
見開いて、ロジオンの
手を
両手で
包むようにして
固くにぎりしめた。
「あたしもついてっちゃ、だめ?」
「お
一人でお
越しくださいとのことです」
淡々とブライトンが
告げると、
少女は
頬をぶすっとふくらませて
執事をにらんだ。
「ロジオン、あたしがいなくても
大丈夫?」
彼の
腕にそっと
寄り
添いながら、
少し
不安そうにアナベルが
問いかけた。
彼女が
終始そわそわとして、
落ち
着かないようすになるのも
無理はない。
これからおもむく
父親との
面談は、
二人にとっては
今後の
人生を
決める、きわめて
重要な
話し
合いになるからだ。
「お
父様はなかなかに
手強いから、やっぱりあたしの
援護射撃があったほうがいいと
思うんだけど?」
「
君のお
父さんは、
僕と
一対一で
話したいと
言ってくださってるんだよ」
アナベルの
発言にいっとき
和んだように
微笑すると、ロジオンは
彼女をたしなめるように
言った。
「……そうね。じゃあ、がんばって、ね……?」
まだ、どこかぎこちない
表情をうかべるアナベルの、ふっくらとした
頬を
両手で
優しく
包む。
「
安心して。きっと
説得してみせるよ」
そうしてじっと
瞳の
奥まで
見つめると、ようやく
安堵したのか、
少女はほころんだ
笑顔を
見せた。
「
仲睦まじいところ
恐縮ですが、
当主様はお
忙しく、お
時間があまりありませんので……」
しばらく
動向を
見守っていたブライトンが、
遠慮がちに
催促する。
ロジオンは
覚悟を
決めたようにすうっと
息をすいこんだのち、
目の
前の
執事に
向かって
言った。
「──わかりました。
今からうかがいます──」