第91話 両の掌を上に向け両肩を上げる紳士こと、今日だとしたら、俺じゃない紳士

文字数 1,624文字

 先日電車に乗っていた時の事である。
 私は優先座席に座っており、マダムや高齢の紳士が乗って来たら席を譲ろうと構えていた。
 すると次の停車駅でマダムが手を取り、80代であろうか足取りの覚束ない紳士が乗って来たので、私は即座に席を譲った。
 するとマダムは微笑みながらこちらに軽く一礼を返してくれたのだが、紳士の方はと言うと両肩を上げて竦めて、と、動作を交えながらの一礼を返してくれたのである。
 何とも洒落た一礼であると思った私は、マダムや紳士と同様微笑みながら会釈を返した。
 と、吊り革を持ちながらふと見遣ると、こちらに一礼を返した後なのに、紳士は何度も両肩を上げて竦めての動作を繰り返していたのだ。

 してみるとそれは不随意運動である。
 そうして両肩を上げて竦めての運動を繰り返すのは、幼少期ならストレスから来る精神性の運動チック症なのだが、高齢になってからのそうした慢性運動チック症は、大脳基底核の老化に因る場合が多い。
 下手をすると大脳深部の脳内神経伝達の機能異常が考えられ、脳梗塞や脳出血或いは脳腫瘍が大脳深部で発生している可能性もある。
 高齢になってからの不随意運動には、細心の注意が必要なのだ。
 私には母が脳梗塞発症後3年間床に臥せり、挙げ句鬼籍に入ったと言う苦い過去が有る。
 その時脳梗塞について色々と勉強したのだ。

 とは言え私は医師でも無いし、況してやマダムや紳士の家族でも無い。
 赤の他人の私が口を出せよう筈も無い。 
 せめてMRIを受診する事を奨めたいと思ったのだが、恐らくマダムは私の知っている事くらい既に医師から聴いて知っているだろう。
 そう考えると何か胸を締め付けられるような思いであった。 

 席を譲る事しか出来なかった私。
 そんな私は一足先に新宿で下車。
 下車する際マダムと紳士はこちらに一礼を返してくれたのだが、私は何とも複雑な気持ちで一杯になったものだ。

 そんな出来事が記憶に新しい今日。
 私は何時もの新宿の百貨店にタイムセールの弁当をゲットするべく、惣菜・弁当コーナーへと出陣。
 運良くお目当てのハンバーグ弁当を手にする事が出来た私は、レジ待ちの列に並んだ。
 と、70代と思しき紳士と、奥様であろうかマダムと呼ぶには少し若い女性が、私の直ぐ前に並んでいた。
 10以上年が離れているのではないか。
 奥様は未だ50代と見える。 

 そんな御夫妻の奥様の曰く。
「あら、嫌だ。
 何処でやったのかしら。
 伝線しちゃったよぉ」
 と、振り返りながら片足を上げて、伝線の走る脚元のストッキングに眼を遣る奥様。

 すると旦那様であろう紳士が振り返り、両の掌を上に向け両肩を上げて見せた。
 刹那私は先日席を譲った不随意運動の紳士の記憶が蘇り、一瞬凍り付いた。
 直後紳士の曰く。
「今日だとしたら、俺じゃないぞ」、と。

 しかしその後の紳士は、肩を上げたり竦めたりはしなかった。
 と、言う事は、不随意運動ではない。
 畢竟紳士は健康である。
 で、そこからさっきの紳士の言葉を分析すると、考えられる事は一つ。
 
 私が口元を緩めたのとほぼ同時に、奥様が紳士の肩を引っ叩いた。
「やだ、もぅ。
 こんなとこで何を言ってるの」、と。

 その後紳士と眼が合った私は、堪え切れずに噴き出してしまった。
 と、奥様も堪え切れない様子でこちらを一瞥すると、恥ずかしそうに照れ笑いしていた。
 そうして精算を済ませた奥様は、紳士の背中を押してそそくさと夫婦2人で去って行った。

 その時私は、「笑いは緊張と緩和である」、と、曾て生前の桂枝雀師匠が言っていた事を思い出した。
 正に今日、「笑いは緊張と緩和である」事を体験した私。

 しかし紳士は、「今日だとしたら、俺じゃないぞ」、と、言った筈。
 ん?
 だとすれば、「今日でないのなら、俺だ」、と、言う事になる。

 と、ここで一つ。
 健康が1番だと言う事は言う迄も無いが、それは夜に於いてもそうなのである、と、恐惶謹言させて戴く。
 かしこ。


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