第5話 どう見ても日本人じゃないアジア人妻こと、日本人妻設定の女優さん

文字数 2,306文字

 ここ最近私は韓流ドラマやアメリカの連続ドラマに大いに嵌っている。
 自宅アパート近くにあるゲオが、旧作を100円で借りれるキャンペーンをやっていて、お蔭で「やめられないとまらない」のだ。
 昭和生まれの人にしか分からないだろうが、
あの有名な菓子メーカーのCMでのキャッチフレーズである。
 とにかく私はそのゲオのお蔭で昨年からのこのコロナ禍を、外に出る必要の無い日はほぼ1日映画やドラマを観ている。
 小説を読むかDVDを観るかで、肝心の自身の小説は大して書けていないのだが、この話なら書ける、と、筆を取った。

 昨年の秋頃に観た2012年から2013年放映の、「タッチ」と言うスピリチュアリティドラマの第11話での話。
 キーファー・サザーランド演じるマーティン
・ボームと、数字を通して過去・現在・未来そして世界各地の人々の繋がりを知覚する、彼の息子ジェイクボームの物語である。
 原案・脚本・制作総指揮迄をティム・クリングが担当する名作だ。
 実に面白いし、ストーリー展開など非の打ち所がない。
 それなのに何故か日本が絡むシーンだけが滅茶苦茶なのである。
 それは、それは、何とも酷い。
 嗤えるし、また笑える。
 作中で東日本大震災3・11以後潮流に乗って太平洋を渡り、日本から米西海岸へと辿り着いた品々を集める白人男性が登場する。
 その白人男性は当時日本の東北地方に旅行していて震災に遭遇し、眼の前で日本人女性が波に浚われて行くのを見る。
 やがて死んだと思っていたその日本人女性と出会うと言う感動の物語で、その話自体は凄く良く出来ていて秀逸と言うべき仕上がりなのだが、余りにも制作総指揮のティ厶・クリングの日本と日本人に対する認識の低さに、嗤い、また笑う事を禁じ得なかった。

 日本人女性の夫が所有していた伝家の宝刀が太平洋を流されて西海岸に漂着し、その白人男性の手元にあるのだが、そこでの刀が余りにもお粗末。
 元来日本刀と言うものは保存の際、白木で出来た白鞘(しらさや)に納められている。
 言うまでもなく真剣は鋼を鍛えて造るものであり、鉄は錆びる。
 それ故刀身を錆から守るべく白鞘に入れて保存するのだ。
 これに対し漆や蒔絵など装飾を施した鞘は、帯刀(たいとう)の際に刀身を納めるもので、これを拵(こしらえ)と呼ぶ。
 つまりもし海中に沈まず日本刀が太平洋を越えて漂着するなら、重さ的に刀身の入っていない白鞘だけ、もしくは拵だけが漂着すると言うことになる。
 しかしそれに反してこのドラマでは、震災で流され太平洋を渡った日本刀は、鞘のない刀身だけのものでしかも柄(つか)の部分は白鞘ではなく、太刀拵(たちごしらえ)なのだ。
 何と言っても錆ていないことが可笑しいし、
仮に何等かの理由で刀身が漂着したとしても、柄の部分が保存用の白鞘ではなく、帯刀時の太刀拵になっているのは可笑し過ぎる。
 またその刀を立て掛ける刀掛けと言うのが黒漆さえ施されていない白木の刀掛けで、壁に貼り付けられた上に家紋が真ん中にドン、と、ボンドでくっ着けたようになっていた。
 伝家の宝刀であれば際密に螺鈿(らでん)や金蒔絵(きんまきえ)が施されていて当然であり、最低限黒漆くらい施されていないと、あれでは剣道場の壁に設置された木刀掛けである。
 それにも益して救いようのないのは、明らかに訛りのあるカタコトの日本語で、どう見ても日本人じゃないアジア人の女性が、日本人男性の妻として登場するのである。  
 私はその際ミャンマーかベトナム辺りのアジア人の奥さんを貰った日本人の男性、と、言う設定なのだろうと勘違いし、最後迄そのことがストーリーにどう影響するのか注視していた。
 しかし何と、そのどう見ても日本人じゃないアジア人で日本人妻設定の女優さんは、徹頭徹尾日本人妻として扱われていたのだ。
 思うに製作費もしくは撮影期日の問題で、日本に留学経験または日本語学校などで日常会話程度を修得した、アメリカ在住でアジア出身の女性を日本人妻設定で起用したのだと思う。
 それに妙なタイミングでお辞儀をするのだ。
 そのシーンを観た日本人なら皆が皆爆笑するだろうし、そこだけコメディの演出ではないのか、と、思ってしまう程だ。
 
 とは言え、上記のような現象は他のアメリカ映画やドラマにも見られるだろうし、そんなことはアメリカ国民に取っては取るに足りない些細なことなのだろう。
 で、あれば、このシーンはいっそのこと芸人の「ゆりあんレトリーバ」に、パロディにして貰ってはどうか。
 と、そう思ったのだが、直後或ることが脳裏を過ぎり怖くなって背筋が凍る思いをした。
 何故ならこれはドラマだから嗤えるし、笑えるのである。
 つまりそれが場合に拠っては、嗤えないし、笑えない、と、言うことも有り得る。
 それは誤ってはならない問題を、日米両政府の事情で両国の国民が都合よく解釈する、と、言う酸鼻に拠って出来する。
 たとえば原爆投下に関する双方の、「マンハッタン計画国立歴史公園」と「広島平和記念資料館」に於いて、日米両国の国民が今後その史実について全く違う認識を持ったらどうするのか、と、言う件に置き換えれば、それは嗤えないし、笑えない問題になる。
 またこのエッセイの主旨にもそぐわない。
 どうかこのような出来事はドラマの中だけに留め置いて戴くように、と、切に願う。
 なので是非この「タッチ」の第11話を観て、大いに嗤い、また笑って戴きたい。 
 で、その直後、日米両国の過去に思いを馳せて貰い、何が嗤えて何が嗤えないのか、また何が笑えて何が笑えないのか、そのことについて熟慮して戴くようお願いする。
 
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