第62話 マフラーをきちんと畳む美しい所作のご婦人こと、罪悪感を起こさせたご婦人

文字数 1,068文字

 昨日マスクの裏に貼り付いていた唇の形のリップグロスに、得も言われぬ罪悪感を抱いた私であったが、白状すると実は罪悪感を感じた出来事はそれだけではなかったのである。
 昨日は朝方にも罪悪感に苛まれてしまった。
 その事を思えば、昨日は朝から晩迄罪悪感に苛まれた一日であった。

 一日中雨が降っていた今日とは違い、昨日は春のようなポカポカ陽気だった。
 朝から厚着で出掛けた人には、コートやマフラーがさぞ邪魔だった事と思う。
 私はコートを羽織らずに出掛けたお蔭でそんな風にはならずに済んだのだが、街往く人は着ているコートや首に巻いたマフラーがどうにも暑苦しそうだった。
 中には道を急ぐ余り歩きながらマフラーを外し、雑然とバッグに放り込んでいる出勤前のOLさんも居た。
 
 そんな中首に巻いていたマフラーをゆっくりと外し丁寧に一折一折と折り畳み、最後は美しい正方形に折り畳んで、綺麗にバッグに仕舞い込んだご婦人が居たのである。
 歳の頃なら60代後半〜70代か。
 所作が何とも美しく年齢を感じさせない趣きがある女性だった。
 先程バッグにマフラーを放り込んでいたOLさんも、このご婦人の所作をこそ見習わなければなるまい。 
 と、私は青信号に代わる迄、そのご婦人の様子を横断歩道の手前でじっと見ていた。
 その時である。
 私が異変に気付いたのは。 

 ん?
 と、思った直後、私は一瞬我が目を疑い何度か眼を瞬かせてはみたが、やはり間違いない。
 何とした事か、所作の美しいご婦人のウイッグが微妙にズレていたのである!

 これは何としても彼女に伝えるべきだろう。
 否、そんな事出来る訳ない。
 名前も知らないご婦人に、「すいません。御髪がズレてます」、とか、そんな事言えるか。
 或いは私が好意からこの手でそっとズレを修正したとして、もし気付かれたらどうなる。
 セクハラとか痴漢で警察に突き出されるかも知れないではないか。
 他に何かこの一大事をご婦人に伝える手立ては無いのか。
 と、逡巡しては躊躇した。
 何とかしなければいけないのは分かってはいたのだが、しかしその術がない。

 どうすれば、と、私が思い悩んでいる間に、無情にも信号は青に変わってしまった。
 そのまま為す術も無く、ご婦人を見送るしか無かった不甲斐ない私。

 そして夜にはマスクの裏に貼り付いていた唇の形のリップグロス、と。
 昨日の私は罪悪感に苛まれ、且つとことん自己嫌悪に陥ったのであった。

 ここで一つ。
 ウイッグをこよなく愛すご婦人方は必ず家を出る前に、もう一度御髪の点検の徹底を恐惶謹言させて戴く。
 かしこ。

 
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