第50話 妊娠検査薬を落とした女性こと、何れにしてもハッピーな女性

文字数 1,842文字

 昨日の事なのだがポイントアップデーの日曜日なので、当然の如く何時もの百貨店へ。
 ところが昨日迄に返さなければならないDVDが有りアメリカドラマを観ていた為に、何時ものタイムセールの時間をオーバーして駆け付ける羽目になったのである。

 新宿の何時もの百貨店に着くや、早足で一階の正面玄関を通過して地階の食品売場へ。
 その道中の事エレベーターに走って乗り込もうとする女性を見掛けた。
 と、その女性が白いビニールのレジ袋を落としたのである。
 ところが相当な量の荷物を手にしていて、レジ袋を落とした事には気付いていない様子。
 私は急ぎその女性の乗ったエレベーターのボタンを連打したのだが、間に合わず扉は閉まり上の階へ。
 刹那辺りを見廻したが誰も人が居ないのだ。
 このコロナ禍とは言え1階なので、何時もはエレベーター係の女性が居るのだが、閉店前の時間とあって廻りに誰も百貨店の人が居ない。
 私はそのレジ袋を手に追い掛けるべきか、或いは受付迄持って行って預けるべきか悩んだ。
 何となればそれでなくとも何時もの時間をオーバーしているのに、これ以上遅くなると割引されているかどうかの前に、弁当が売れ残っているかどうかさえ疑問だからである。
 往々にして完売している時があるのだ。

 が、ふと見れば、そのレジ袋から転び出てい
る「モノ」が「モノ」だったので、落し物をした女性が乗ったエレベーターの停止階を見届ける事にした。
 エレベーターは5階で停止したのを確認。
 そうなのである。
 その女性が落としたレジ袋とは大手ドラッグストアのもので、レジ袋から転び出ていたモノとは、何と「妊娠検査薬」だったのだ。
 レジ袋の中には他にも何点かそこで買物をしたと思しき品が入っているし、況してや「妊娠検査薬」ともなれば、その必要性たるや図り知れないものがある。
 
 兎に角彼女の許へ届けねばなるまい。
 一刻も早くこの「妊娠検査薬」を、と。
 私は隣とその隣のエレベーターの釦を始め、全エレベーターの釦を押した。
 そしてエレベーターに乗り込んだ後、私は5階に着く迄の間あれやこれや想像を巡らせた。
 もしこの「妊娠検査薬」を彼女に届ける事が出来なければ、どんな事態を引き起こすかを。

 部屋に帰った彼女を問い詰める彼。
「どうして買って来なかったんだ?」 
 問われた彼女が表情を強張らせる。
「何処かで落としただけよ。
 何でそんな言い方をするの。 
 随分酷いのね。
 結果が陽性なら貴方が望まなくても、私が絶対に産むって言ったからなの?」
 そう言われて彼女の肩を掴み声を荒げる彼。
「おい、勘違いするなよ!
 兎に角調べてからでないと」

 いかん!
 いかん、いかん、いかん!
 これを届けなければ、大変な事に。
 私は記憶の中の彼女を脳裏に呼び覚ました。
 マスク越しで顔は分からなかったが、服装は確か白っぽいジャケットにパンツだった筈。
 と、ややあってエレベーターの扉が開いた。
 5階に到着しフロアに飛び出す。
 すると暫く歩いた処で彼女に出会した。
 白っぽいジャケットにパンツスタイルの彼女が、足元に視線を送り周辺の床の上を窺っているではないか
 彼女もレジ袋を探しているのだ。
 このフロアで落したと思っているのだろう。

 私は彼女に駆け寄って、手にしたレジ袋を差し出した。
「さっき1階でエレベーターに乗る時、落とされましたよ」、と。
 直後満面に笑みを浮かべた彼女が、こちらに対し頻りに頭を下げてくれた。
 ややあって片手で幼稚園児位の男の子の手を引き、片手でベビーカーを押しながら彼女の旦那と思しき男性がやって来ると、夫婦揃って二人でお礼を言ってくれたのである。
 私は笑顔で応じながらも、『あぁ〜なる程、そっちの方ねぇ。おめでたい方の妊娠検査薬。で、3人目がどうかって言う検査ねぇ。奥さんが子供達を旦那に任せて、一人で買物してた訳だ』、と、胸中に呟いた。
 挨拶も程々にその夫婦に背を向け踵を返した私は、スリルとサスペンスを求めた自身の阿呆さ加減に、思わず嘆息を吐き出してしまった。

 直後大至急地階の惣菜・弁当コーナーへと駆け付けると、やはり良い事はするものだ。
 何時もは半額になる事が無い憧れのちらし寿司が、1折りだけ売れ残っているではないか。
 即購入、と、同時に閉店のベルが鳴った。

 その日部屋に戻った私は、ちらし寿司を食べながらつくづく思った。
 親切はするものだ、と。
 それが例えスリルとサスペンスを求める、野次馬根性から出た不純な親切であってもだ。
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