第59話 もう直ぐお世話になる地上波チャンネルこと、どうなるのシニアチャンネル

文字数 3,618文字

 昨日の事日テレの「踊るさんま御殿」、と、言う番組を観ていると、ジェネレーションギャップについて視聴者の意見が披露されていた。
 メインMCの明石家さんまが、「ファン」の事を「フアン」、と、真ん中の小さい「ァ」を大文字にして発音する、と。
 また「ディレクター」の事を「デレクター」と、真ん中の小さい「ィ」を省いて発音する、と。
 確かにそうだ。
 しかし番組内では、何故そうなるのかについての原因に迄言及される事は無かった。

 明石家さんまは1955年、つまり昭和30年生まれである。
 戦後10年しか経っていなかったその頃は英語教育が今のように整備されておらず、殆どの国民が英語をアルファベットで表記されても理解出来なかったのだ。
 無論彼が本格的に教育を受け始める昭和40年代は、昭和30年代よりはマシな英語教育が施行されたが、三つ子の魂百迄と言うように、子供の頃の彼に英語で何かを伝える両親や周りの大人達は、英語と言えばアルファベットではなくカタカナでその事を理解し伝えていた筈。

 例えば「トルーマン」元米大統領も然りだ。
 アルファベットを忠実にカタカタ変換すると「トゥルーマン」だが、終戦直後にはアルファベットからカタカナを導き出す習慣がなく、カタカナ表記で「トルーマン」としたのだろう。
 確かにカタカナだと「トルーマン」の方が簡潔且つ明快である。
 故に終戦直後のまま未だに「トゥルーマン」は、「トルーマン」として表記される。
 しかしアルファベットで英語を理解する世代からすると、「トルーマン」だと、聴いた限りでは「トールーマン」に聴こえるだろう。
 また同様に「デレクター」も聴いた限りでは、「ディレクター」ではなく「デーレクター」に聴こえる。
 しかし「デレクター」の方が、「デーレクター」よりも、表記すれば簡潔且つ明快。
 英語がアルファベットで理解されない時代は、聴いた時の事より表記された時に簡潔で明快な方を選んだかのように思う。
 それとこの件にはDの発音に対して言うと、戦前の「敵性語排斥」が大いに影響している。

 戦前の日本では英語を話すどころか、アルファベットを書く事さえ許されなかった。
 三国同盟締結以降イタリアの離脱後は、唯一使用を許された外国語と言えばドイツ語だけ。
 それもカタカナ表記を用いてだ。
 それが故に戦前を始め当時の伝統を受け継ぐ学校では1・2・3とリズムを取る際未だに、(ワン・ツー・スリー)ではなく、(アインス・ツヴァイ・ドライ)、と、リズムを取ってから校歌や応援歌を歌い出す学校も有る。
 例えば、「ザイル」、「ピッケル」、等の山岳用品はドイツ語で、これ等は元々明治時代に日本に入って来たのだが、太平洋戦争の時期もドイツ語だったので日本語に改められず、原語のまま使用した為現在に迄到った。
 医学用語の、「メス」、「カルテ」、等も然りである。
 逆に「野球」は元々英語で「ベースボール」として入って来たが、太平洋戦争中に敵性語排斥で「野球」、と、改められてしまったが故に現在も尚「野球」なのだ。

 他にも明石家さんま以前に生まれた人達は、「D」を「ディー」では無く、「デー」と発音する。
 また「T」を「ティー」では無く、「テー」と発音する。
 これも戦前の「敵性語排斥」が大いに影響しているのだ。
 ではここで、「D」と「T」のドイツ語での発音をカタカナで表記してみよう。
 英語での「D(ディー)」は、ドイツ語では「D(デー)」である。
 また英語での「T(ティー)」は、ドイツ語では「T(テー)」である。
 故に前の世代の人達は英語が発音し難いからではなく、単にドイツ語で発音しているのだ。
 そうなのである。
 今の世代の人達には、その事を理解して貰いたいのだ。
 そこに太平洋戦争が影を落としている事を。
 前の世代の人達は知らず知らずの内に英語では無くドイツ語で、若い世代が英語でしかイメージ出来ない「D」なり「T」なりを、発音していたのだ。
 例えば終戦直後占領軍は「DDT」、と、言う蚤や蝨退治用の殺虫剤を持ち込んだが、これを当時の日本人医師達は皆「ディー・ディー・ティー」ではなく、「デー・デー・テー」、と、ドイツ語読みしたらしい。

 と、以上に述べた事を踏まえて、ここで明石家さんまの話に戻る。
 彼等英語をカタカナで理解する世代の人達が、「デレクター」の「デ」を「デー」ならいざ知らず、「ディ」、と、表記する発想が生まれる訳もなかろう。
 ところが「デーレクター」と表記しても、解り難いし言い難い。
 何と言っても「デレクター」の方が簡潔且つ明快ではないか。
 故に現在では「ディレクター」と表記されるのが当然であっても、当時は「デレクター」と表記されたのだ。
 
 さて、私が今日何故斯くもジェネレーションギャップについて書いたかと言うと、昼間テレ朝のシニア向けドラマを観ていたからである。
 西村京太郎の十津川警部シリーズのドラマなのだが、実はドラマの内容は然程覺えていないのだ。
 しかしその際放送されたスポンサーのCMがどんな物であったかは、きちんと覺えている。
 マットレスや電化製品等、やはりシニア向けと思しき商品のCMが眼を惹いた。
 何故私がそんな穿ったドラマの観方をしたかと言うと、シニアに特化したドラマ作りをしているテレ朝の、高視聴率獲得に反するスポンサー離れについて研究する為だ。

 これは持論だがホテル等の宿泊施設や交通機関の、適性な売価を判断するAIシステムのダイナミックプライシングが、そろそろテレビCMの世界にも影響し始めているのではないかと思うのである。
 季節や時間帯或いは人の移動具合等でプライシングするように、CMの世界でも自社商品宣伝の番組選定条件を視聴率だけに限らず、どの番組でCMを打つのが最も効率が良いかをAIでターゲティングするシステムが、最早構築されているだろう事は想像に難くない。
 つまりシニアチャンネルと言われるテレ朝が高視聴率を取っても、それは飽く迄もシニア層に特化したドラマでの視聴率であって、それが即ちスポンサーの望むドラマとは言い切れないような時代が到来したのだと言う事。

 してみると今は亡き母が好きだった、「科捜研の女」や「相棒」等のシニア向けドラマにもスポンサーが付かない時代がやって来て、ドラマが打ち切りになる可能性も出て来るのだ。
 何とも寂しい話である。
 とは言え私が現在観ているテレ朝の番組は、6番組に限られるのではあるが。
 土曜夜放送の「あざとくて何が悪いの」と、「ノブナカなんなん?」と、「モコミ〜彼女ちょっとヘンだけど〜」と、「書けないッ」と、
「伯山カレンの反省だ!!」と、「アニマルエレジー」の6番組である。
 つまり土曜の夜は10時前から夜中の1時半迄、実に3時間半もの間テレ朝だけを観ているのだ。
 但し6番組共全くシニア向けではない。
 だからこそ観ているのだとも言える。
 思うにこれ等番組をテレ朝が今製作している事こそが、彼等がシニアに特化したドラマ作りからの脱却を模索している証左ではないか。

 製作サイドに取って、高視聴率だけが広告主の需要を掘り起こす唯一の方途だった時代に終わりを告げ、AIに拠るターゲティングが主流となる現代の事である。
 とは言え広告主である企業が最も欲するのは、子供からシニア迄全世代をカバーする高視聴率ドラマであろう。
 例えば「半沢直樹シリーズ」のような。
 しかしそんなドラマの製作は誠に以て困難。
 そうだとすれば例えばコスメや女性向けアプリのCMを打つなら、その特定の女性に向けたドラマのスポンサーになる方がまだしも現実味がある。
 そこでAIに拠るターゲティングが登場。
 と、何れにしても視聴率が高いからと言うだけで、闇雲にCMを打つ時代等とうに終わっているのだ。
 つまりどう考えても今後は、シニアに特化したドラマは減少する運命だと言う事になる。
 ポストシニア世代の私としてはシニアが愉しめる「シニアチャンネル」のポジションを、テレ朝には何としても死守して欲しいのだが、彼等が企業である以上はそうも行くまい。

 然し乍ら若い世代の人も、アッ、と、言う間にシニアになる事は言う迄も無い現実である。
 例えば昨日の火曜放送の「オー!マイ・ボス! 恋は別冊で」を観ている人達の、30〜40年後も然り。
 その人達が孫を持つ時代になり、「別冊って何?」、と、その孫達に訊かれるのも、アッ、と、言う間なのである。
 何となれば今後益々ペーパーレスが推進され、紙の雑誌が消滅するかも知れないからだ。
 その時代に生まれて来る子供達は当然の事、「別冊」とは何かを知らない。
 
 ここで一つ。
 自分より前の時代を生ていた人達が、何を見て、何を感じ、どうやって生きて来たのかを知る事は、結して無駄ではないと言う事を若い世代の人達に恐惶謹言させて戴く。
 かしこ。

 
 
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