第81話 スプリングコートの女子こと、「紐」が取り為す縁の女子

文字数 1,425文字

 今日も派遣の事務仕事が有ったのだが、その復路での事20代〜30代と思しき女性が、驚いた事に新宿駅構内で着ているスプリングコートのベルトを引摺りながら走っていた。
 宛らウェディングドレスのヴェールの如く。
 長さは2m近くあったのでは無いだろうか。
 気付いた私は直ぐ様追い掛けようとして駆け出したのだが、如何せん私とは遠く離れた処を走っていた彼女に追い付く事も出来ず、あっ、と、言う間に私鉄駅の改札へと吸い込まれて行った。
 夜も10時頃だったし電車に乗り遅れまいと必死になる余り、コートのベルトを引摺っている等とは思いも寄らなかったのであろう。
 もうそうなると改札の向こう側に居る人達に任せるしか有るまい。
 或いは自身で気付いて貰うか、だ。
 兎にも角にも彼女が僥倖に恵まれる事を、祈る他は無いその時の私であった。

 今年は桜の開花も早くこんな時期だと言うのに、もう早々と街には女性達が春物のコートの花を咲かせている。
 異例のポカポカ陽気の今、ピンク系やベージュ系の春らしい明るい色のコートは、見ているだけでこちらも癒やされるのだが、ウエストをコートと同じ素材で作られたベルトで縛るスタイルのコートが少なくなく、私の見掛けた椿事は良く起こる事らしい。
 と、言うのもその直後の事。 
 地下街へと歩みを進めた私が壁面に据え付けられたATMの脚元に、何やら淡いピンクの布製ベルトを発見したからである。
 拾い上げてみると、どうやらスプリングコートのベルトらしい。
 スプリングコートの場合ベルト通しにベルトを括り付ける人が多いようで、括り方が悪いとそうして外れてしまうのである。
 先程の場合は引き摺ってはいたがまだ外れていないだけ、そのベルトの主よりはましだ。

 直後私はその布製のベルトをメトロとJRどちらに届けるべきか、どちらの方がここからより距離が近いだろう、と、首を巡らせてみた。
 するとその数メートル先で、私の見付けたベルトと全く同じ色のコートを着た女性が足元に視線を落として首を巡らせたり、自身のコートの腰の辺りを何度も確かめるような仕草をしているではないか。
 間違い無い、と、私はベルトの主と思しき女性に駆け寄った。

 彼女に対し、「あの〜」、と言うと、その後の言葉を私が継ぐよりも早く、私の手の中のベルトを発見した彼女は、「あ〜、良かった。ありがとうございます」、と、一礼してくれた。
 マスク越しにも美形でスタイルの良い女性だったので、もう少し私が若かったらベルトと引き換えに連絡先を訊いていた処である。
 が、しかし、若くなくて良かった。
 と、その時は珍しく思ったものだ。
 何となれば直後に彼氏が駆け付けて来て、頻りに礼を言ってくれたからだ。
 私は彼に軽く会釈してその場を立ち去ったが、本当に危なかったぁ。  
 赤っ恥を掻く処だ。

 ところでその際以前不動産業界で仕事をしていた時、「あの物件実の処紐付きなんだよ」、等と言って、一定の条件をクリアしないと成約出来ない物件を『紐付き』、と、言う言葉で呼び習わしていた事を思い出した。
 私だけではないと思うのだが、「紐付き物件」を扱うと殆どの場合ロクな事がなかった。
 それにも益して女性の「紐」ともなれば、その女性に取ってロクでも無い縁である事は言う迄も無い。

 ここで一つ。
 やはりと言うか、必然と言うか、「紐(ベルトを含む)」の取り為す縁が成就する事は無いと思った方が良い、と、恐惶謹言させて戴く。
 かしこ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み