第98話 壁に向かって落語か講談の稽古をする若者こと、そうでは無いオジサン

文字数 1,406文字

 ここ最近新宿歌舞伎町に建設中の超高層ビルが有る。
 何でも高層階は高級マンションになるらしいのだが、私のような貧乏人は転生でもしない限り縁の無い物件だ。
 そんな建設中物件の側面の路地裏には飲食店等店舗が全く無く、現在はその建設中物件を覆う白い仮囲い以外何も無い状態になっている。

 そう言った具合なので研修生なのか、或いはプロであっても売れていない漫才コンビなのだろう2人組が、そこの白い仮囲いの壁に向かってネタ合わせをしている姿を良く見掛ける。
 新宿には関西出身で、業界最大手のお笑い興業会社が運営する劇場が在るからだろう。
 大体は男性2人のコンビでたまに女性2人のコンビも見掛けるが、ピン芸人が一人でネタの稽古をしている姿はついぞ見掛けた事がない。
 ピン芸人の場合ネタ合わせは必要無いと言えばそうのだろうが、私としては落語や講談の稽古風景なら観てみたいと思うのである。

 何と言っても落語や講談には、東京が「花のお江戸」だった頃の色や匂いが宿る。
 名人と言われた古今亭志ん生や桂歌丸が演じる古典落語を、DVDで観る事もしばしば。
 殊に古典落語では「宮戸川」のような艶噺や、或いは「品川心中」等江戸の風情を感じれる噺が私の好みに合う。
 何より新宿には落語の寄席があり、以前は良く観に行ったものだ。
 最近落語では柳亭小痴楽が人気になっているし講談では神田伯山が活躍しているが、漫才やコントを志す人達に比べれば、落語家や講談師を志す人はその半分にも満たないのではないだろうか。

 私としては落語家や講談師に成りたいと言う人が多く出て来て欲しいのだが、これから先そんな事にはならないのかも知れない。
 悲しいかな落語や講談と言った寄席で掛けられるネタでは、テレビや況してや動画配信が娯楽の中心である世代に取っては、ストーリーが展開するスピード、或いは笑いの質や量に於いて、少し物足り無いと感じるだろうからだ。
 してみると落語や講談の稽古を白い仮囲いの壁に向かってする者等、1人も居よう筈無いのが道理かと思いきや、それが居たのだ。

 昨日の夜の事である。
 白い仮囲いの壁に向かって、淡々と落語もしくは講談の稽古をしている長髪の若者が、しかも扇子を持って・・・・・。

 ん?

 若者ではない。
 長髪ではあるがオジサンであった。
 しかも良く良く見ると、手にしているのは扇子ではなく酒瓶てある。
 話の内容は、と、言うと、ここに書けるようなまともな物ではなく、支離滅裂。
 私が一瞬落語や講談に登場する、「酔っ払い役」を稽古しているのか、と、思った彼。
 そんな彼は唯の「酔っ払い」だったのだ。
 このまん延防止等重点措置下の東京23区内の事注意すべきかとも思ったのだが、私の向こうからやって来たカップルも、彼を避けるようにして通り過ぎたのである。
 これ以上のソーシャルディスタンスは無い。
 それに「酔っ払い」とは言えマスクだけは着けている。
 何と言っても注意するのが馬鹿馬鹿しい。
 その「酔っ払い」に対し一刻も早く帰るように、と、胸中に呟き、その場を後にした私。

 と、ここで一つ。
 壁に向かってネタ合わせをする2人は居たとしても、壁に向かって落語や講談の稽古をする人は居ないのである。
 もしも壁に向かって「酔っ払い役」の稽古をしている人を見掛けたなら、それは「酔っ払い役」ではなく、「酔っ払い」そのものである、と、恐惶謹言させて戴く。
 かしこ。
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