第31話 ベビーカーの「おばちゃん」こと、飴ちゃんの「おばちゃん」
文字数 2,058文字
昨日新宿に出掛けた際に、ベビーカーを押しながら歩く親子3人連れを見掛けたのだが、至極印象的だった。
何故かと言うと普通は居る筈のお母さんが、彼等の周りには居なかったからである。
エスカレーターを登り切った私の視界の先に居て、ベビーカーの横には幼い女の子の姿だけが有った。
その女の子が弟だか妹だかを横から守るようにして、ベビーカーを押すお父さんと親子3人で歩いていたのだ。
土曜の新宿である。
夫婦とベビーカーなら幾らでも居る。
或るいは旦那さんが不在で、お母さんだけでベビーカーを押すパターンも多数見掛ける。
それ等は当たり前の予定調和の風景だ。
しかしお母さん不在でのベビーカーの親子たるや、そうそう見掛けるものではない。
しかも彼等の向かっている先には私鉄の改札口があり、お母さん不在のまま電車に乗ろうとしているのだ。
とは言えお母さんだけが1人で買物をしていて、後で待ち合わせると言うケースもある。
恐らく改札で待ち合わせているのだろう。
或るいは改札の向こう側とか。
私はそう高を括った。
そうして気になって仕方の無い私は、暫くそのお母さん不在の親子を見守った。
すると何とした事か、改札にも改札の向こう側にもお母さんはおらず、その親子3人はホームの彼方へと消えて行ったのである。
例えば今がコロナ禍で無ければ、お母さんの同窓会、或いは結婚式等で、どうしても子供達を連れて行けず、代わりにお父さんが面倒を見ていると考えられない事もない。
しかしこのコロナ禍である。
ひょっとしてお母さんが新型肺炎に感染し、已むを得ずお父さんが子供達の面倒を見ているのではないか、と、考えられない事もない。
何れにしても私に出来る事をしてあげたい。
そう思わせる親子連れであった。
その後百貨店でタイムセールの弁当を購入し終え、帰路に就いた私は地下街を歩いていた。
すると階段の下で手提げ袋をベビーカーに括り付け、背中にはリュック、と、言う出で立ちの70代と思しきお婆ちゃんに遭遇。
マスク越しとは言え白髪の感じや腰の曲がり具合等で、大体の年齢は察しが付く。
見れば階段を上れずにエスカレーター或いはエレベーターが無いのか、と、キョロキョロと周囲を窺っている様子。
お父さんの幼い子供達を連れて歩く姿に胸を打たれ、自分に出来る事が有ればして上げたい
と思っていた直後の事である。
私は躊躇無くお婆ちゃんに声を掛けた。
「良かったらベビーカーとか、お荷物全部階段の上に上げましょうか?」、と。
軽く会釈したお婆ちゃんの曰く。
「ほんま、悪いなぁ兄ちゃん。
ほな、頼むわぁ」、と。
不意を衝かれた私が、「ゲッ、マジで」、と、思った事は言う迄もない。
そうなのである。
お婆ちゃんは紛れも無く関西人だったのだ。
次いで私はベビーカーに乗っている「物」を見て、再び、「ゲッ、マジで」、と、なった。
ベビーカーに乗っていたのは赤ちゃんでも、仔犬でもない。
それは紛れも無く5Kパックのお米だった。
とは言えお婆ちゃんが困っているのに違いはないし、私は括り付けてある手提げ袋ごとベビーカーを抱いて階段を駆け上がった。
直後お婆ちゃんに労いの言葉を戴く。
「おおきに、ありがとうなぁ、兄ちゃん。
おばちゃんなぁ、飴ちゃん持ってるよってなぁ、ほれ、飴ちゃん上げよ、飴ちゃん」、と、労いの飴玉も数個差し出して来た。
私は恭しく飴ちゃんを頂戴し、礼を言うお婆ちゃんに別れを告げた。
その後部屋に戻った私は貰った飴玉を机の上に置き、それを眺めながらつらつらと考えた。
思うに「関西のおばちゃん」に取っての飴玉は、硬貨に代わって安価な対価を支払う際のビットコインのような物なのだろうか、と。
それに「関西のおばちゃん」に取っての飴玉は飽く迄「飴ちゃん」であり、飴玉ではない。
つまり飴玉に「ちゃん」を付ける事によって飴玉をより親しみ易いものと感じさせ、金銭を受取る時のような重苦しさを感じさせなくしているのだ。
そう考えると「飴ちゃん」は凄く便利だ。
しかし関東の女性がそうしないのは何故なのだろう?
何故関西人だけなのか。
それに良く考えると関東では禁忌とされる表現である「おばさん」を、ここでも「ちゃん」を付ける事によって愛称へと昇華させ、自身をも自身で「おばちゃん」と呼ぶのである。
それに今日出会ったお婆ちゃんのように、仮に年齢的にはお婆ちゃんであっても、やはり呼称は「おばちゃん」なのである。
あの禁忌である「おばさん」が「ちゃん」を付けるだけで、斯くも広範囲の女性の愛称になるのだから凄い。
恐るべし関西人。
恐るべし関西の「おばちゃん」。
しかし関東圏では絶対に如何なる女性に対しても、軽々しく「おばちゃん」、等と、言ってはならない。
関東圏で女性を「おばちゃん」と呼ぶ場合、先ずはその女性が「飴ちゃん」を所持しているかどうかを確認してからにして戴きたい。
もしこれを怠れば大変な事になる旨、恐惶謹言させて戴く。
夢々疑う事なかれ。
何故かと言うと普通は居る筈のお母さんが、彼等の周りには居なかったからである。
エスカレーターを登り切った私の視界の先に居て、ベビーカーの横には幼い女の子の姿だけが有った。
その女の子が弟だか妹だかを横から守るようにして、ベビーカーを押すお父さんと親子3人で歩いていたのだ。
土曜の新宿である。
夫婦とベビーカーなら幾らでも居る。
或るいは旦那さんが不在で、お母さんだけでベビーカーを押すパターンも多数見掛ける。
それ等は当たり前の予定調和の風景だ。
しかしお母さん不在でのベビーカーの親子たるや、そうそう見掛けるものではない。
しかも彼等の向かっている先には私鉄の改札口があり、お母さん不在のまま電車に乗ろうとしているのだ。
とは言えお母さんだけが1人で買物をしていて、後で待ち合わせると言うケースもある。
恐らく改札で待ち合わせているのだろう。
或るいは改札の向こう側とか。
私はそう高を括った。
そうして気になって仕方の無い私は、暫くそのお母さん不在の親子を見守った。
すると何とした事か、改札にも改札の向こう側にもお母さんはおらず、その親子3人はホームの彼方へと消えて行ったのである。
例えば今がコロナ禍で無ければ、お母さんの同窓会、或いは結婚式等で、どうしても子供達を連れて行けず、代わりにお父さんが面倒を見ていると考えられない事もない。
しかしこのコロナ禍である。
ひょっとしてお母さんが新型肺炎に感染し、已むを得ずお父さんが子供達の面倒を見ているのではないか、と、考えられない事もない。
何れにしても私に出来る事をしてあげたい。
そう思わせる親子連れであった。
その後百貨店でタイムセールの弁当を購入し終え、帰路に就いた私は地下街を歩いていた。
すると階段の下で手提げ袋をベビーカーに括り付け、背中にはリュック、と、言う出で立ちの70代と思しきお婆ちゃんに遭遇。
マスク越しとは言え白髪の感じや腰の曲がり具合等で、大体の年齢は察しが付く。
見れば階段を上れずにエスカレーター或いはエレベーターが無いのか、と、キョロキョロと周囲を窺っている様子。
お父さんの幼い子供達を連れて歩く姿に胸を打たれ、自分に出来る事が有ればして上げたい
と思っていた直後の事である。
私は躊躇無くお婆ちゃんに声を掛けた。
「良かったらベビーカーとか、お荷物全部階段の上に上げましょうか?」、と。
軽く会釈したお婆ちゃんの曰く。
「ほんま、悪いなぁ兄ちゃん。
ほな、頼むわぁ」、と。
不意を衝かれた私が、「ゲッ、マジで」、と、思った事は言う迄もない。
そうなのである。
お婆ちゃんは紛れも無く関西人だったのだ。
次いで私はベビーカーに乗っている「物」を見て、再び、「ゲッ、マジで」、と、なった。
ベビーカーに乗っていたのは赤ちゃんでも、仔犬でもない。
それは紛れも無く5Kパックのお米だった。
とは言えお婆ちゃんが困っているのに違いはないし、私は括り付けてある手提げ袋ごとベビーカーを抱いて階段を駆け上がった。
直後お婆ちゃんに労いの言葉を戴く。
「おおきに、ありがとうなぁ、兄ちゃん。
おばちゃんなぁ、飴ちゃん持ってるよってなぁ、ほれ、飴ちゃん上げよ、飴ちゃん」、と、労いの飴玉も数個差し出して来た。
私は恭しく飴ちゃんを頂戴し、礼を言うお婆ちゃんに別れを告げた。
その後部屋に戻った私は貰った飴玉を机の上に置き、それを眺めながらつらつらと考えた。
思うに「関西のおばちゃん」に取っての飴玉は、硬貨に代わって安価な対価を支払う際のビットコインのような物なのだろうか、と。
それに「関西のおばちゃん」に取っての飴玉は飽く迄「飴ちゃん」であり、飴玉ではない。
つまり飴玉に「ちゃん」を付ける事によって飴玉をより親しみ易いものと感じさせ、金銭を受取る時のような重苦しさを感じさせなくしているのだ。
そう考えると「飴ちゃん」は凄く便利だ。
しかし関東の女性がそうしないのは何故なのだろう?
何故関西人だけなのか。
それに良く考えると関東では禁忌とされる表現である「おばさん」を、ここでも「ちゃん」を付ける事によって愛称へと昇華させ、自身をも自身で「おばちゃん」と呼ぶのである。
それに今日出会ったお婆ちゃんのように、仮に年齢的にはお婆ちゃんであっても、やはり呼称は「おばちゃん」なのである。
あの禁忌である「おばさん」が「ちゃん」を付けるだけで、斯くも広範囲の女性の愛称になるのだから凄い。
恐るべし関西人。
恐るべし関西の「おばちゃん」。
しかし関東圏では絶対に如何なる女性に対しても、軽々しく「おばちゃん」、等と、言ってはならない。
関東圏で女性を「おばちゃん」と呼ぶ場合、先ずはその女性が「飴ちゃん」を所持しているかどうかを確認してからにして戴きたい。
もしこれを怠れば大変な事になる旨、恐惶謹言させて戴く。
夢々疑う事なかれ。