あたしは熱帯魚。
あたしは熱帯魚だから水槽からは出られない。この透明なガラスの正方形だけがあたしの世界。少なくともペットショップからここに来たあたしは、正方形から出たことは無いし出ようとも思わない。だってあたしの世界はここしか無いから。
微かな振動とともに自動給餌器が稼働した。横文字でいうとオートフィーダーというやつ。水槽の壁にかけるようにして、あたしの世界の真上に鎮座している。
あたしの世界の上辺にぱらぱらと、あたしのご飯が降ってくる。いつもなら、水面まで泳いで行ってご飯を食べる。
けれどあたしは、自動給餌器からじゃなくてあの人がつまんで水面に落とすご飯をもらいたかった。だから食べない。あの細い指先で、あたしにご飯をくれる人。あたしを飼育している人だ。ガラス越しにあたしを見つめる、あたしの飼い主。あたしが一緒に暮らしている人間。
ペットショップの人間と、あたしと暮らしている人間は違う。違うけれど、何がどのように違うのかは、あたしには分からなかった。
あたしと一緒に卵から生まれてきた大勢の仲間たちから引き離されて、わりと小さめな容器に入れられて、あたしたちは売られた。隣の瓶にはきょうだいがいたけど、そんなことはどうでも良かった。あたしは蓋に空気穴が開けられた瓶の底でぼんやりしながら、水面に落ちてくるご飯を待つだけの日々を過ごした。
けれどある日あの人はやって来た。
並ぶ瓶に入れられた色とりどりのあたしたちを眺めて歩き回り、そしてあたしを見て立ち止まった。
その人はあたしを見て笑った。
その顔はペットショップの店員たちが、ここにやって来てあたしの仲間を買ったり、飼育用品を買ったりする人間に向けてする表情と同じ形をしていたけど、それとは少し、違う種類のように見えた。
それからあの人は店員を呼びに行って何事かを会話し、店員はあたしと水を袋に移して、ボンベからしゅーっと酸素を入れた袋の口を輪ゴムで縛り、そしてあたし入りの袋をあの人に手渡した。
袋の中からあたしが見上げたあの人は、さっきと同じ顔をした。
そうしてあたしはここに来た。
あの人は毎日決まった時間にご飯をくれた。
ご飯の時間は、あの人が決めた時間からほとんどずれることがなかった。あの人は毎日壁に掛けてある時計を見て、時間通りにご飯をくれたから。
時間通りに、あの細くて白い指があたしの世界の上に現れて、ぱらぱらとご飯を散らしていく。あの人の口が動くのが見えるけれど、人間の言葉は分からないし、何より音も聞こえない。それでもあの人はあの顔をした。店員たちが他の人間に見せる顔。笑顔。でも、店員たちのそれとは何となく何かが違う顔。
何が、違うんだろう。
分からなかった。
けれど、あの人のあの顔を見るのは好きだった。
あたしが気まぐれに泳いでヒレをゆらゆらさせるのを、あの人はじっと眺めていた。ペットショップでもたまにそういう人間があたしを覗き込んでいたけれど、ほんの少しの時間でその場を去っていくものだった。けれど、あの人は飽きもせずに何分もあたしを眺め続けた。
飽きもせずにあたしを眺めていてくれたはずのあの人は、もう何日もあたしが見えるところにいなかった。
自動給餌器は動くから、あたしはご飯に困らない。あたしの周りの水も綺麗。スポンジフィルターで濾過された優しい水流が、あたしの泳ぎを邪魔することはない。
それでもあの人は、何故だかここにいなかった。
どうして?
あたしはあの人からご飯をもらいたい。
また、あたしの泳ぎをじっと見つめていて欲しい。
あたしの前であの笑顔を見せてほしい。
どうして? ねえ、どうして?
あの人に、会いたい。
もう、会えないの?
「はー疲れた」
俺は独り言を言いながら帰宅した。
時刻は夕方。遅い時間ではないが、流石に泊まりの出張がこれだけ伸びると疲れてしまう。飯食って、早めに寝るとしよう。
玄関で靴を脱いでアパートの狭い廊下を抜け、リビングに向かう。俺はベタを飼っているから、その様子を見ようと思った。
「あ、」
ベタが死んでいた。
メスの個体にしては色鮮やかで大きめ、そして美しかったヒレに、白いモヤのような塊がまとわりつき、汚らしくなっていた。
いつ死んだのかは分からなかったが、死骸が沈んでいたし水カビも出ていたから、ついさっき死んだというわけでもなさそうだった。
フィルター、オートフィーダーを確認したが電源は切れておらず正常に動いていたようだった。水温にも問題はない。サーモスタットもヒーターも普通に稼働していたようだ。
しかし水槽の底には食べ残しの餌が結構な量沈んでいた。
もともとベタは良く食べる魚ではないから、オートフィーダーが餌を落とす量も少なめにしていたが、多過ぎたのだろうか。水質悪化か。pHバランスが崩れたのか。後で水の状態を調べておかなければ。
何故、死んでしまったのだろう。
惜しかった。
ヒレの形も模様も美しい個体だったから、もう少し状態が安定したら繁殖させる事も考えていたのだが。
「次の休みにショップに行くか……」
俺は次のベタを買おうと思った。
作:千石京二