【新人の教育係】
社会に出れば、それまでとはまた違う人とも出会える。同僚や上司、取引先なんかは「合わない性格だから」なんて理由で突き放したり避けたりすることはできない。
頭と要領だけが取り柄の、“普通”を愛する俺は、五年前に市内のIT系の企業に就職した。もはやIT系と言えるのか言えないのかわからないレベルの中小企業だが、それなりに給料がいいから面接に行って、受かって、就活も面倒だったから何も考えずそこに入った。
ゆるゆるとした学生時代を過ごしてきた俺にとって、社会とは「嫌い」「合わない」「無理」のオンパレードだった。最近やたら頭頂部のバーコード化が進んだパワハラ部長、嫌みしか言えない無能のお局、あと……ボディータッチが激しい先輩。どいつもこいつも、人間はクソだと改めて思い知らせてくれた。それでも……それでも、だ。持ち前の要領の良さと、学生時代に培った愛想笑いのスキルで、なんとかここまで生き延びてきた。ただ金がもらえればいい、目立たず地味に、それこそ“普通”に生きていけばいい。そんな感じで過ごしてきたのだ。
ブラックかホワイトかで言ったら漆黒の部類に入るうちの会社に、俺より下のやつはいなかった。新人は、日々の業務の辛さと度重なるパワハラでことごとく辞めていったからだ。
しかし今日、ついに俺は先輩になる。新卒のくせになぜか五月入社の子が、俺の部署に入ってくるらしい。俺は、バーコード部長に「“普通”であるお前にしかできないことだ!」と教育係を押し付けられ、その新人を会社の外まで迎えにいく羽目になった。ちょっと変わった子だから、と忠告を受けてきたが、いったいどんな曲者がやってくるのだろう。
「おっせーなぁ。もう約束の時間は過ぎて……ないけど、十五分前に着いてるのは常識だろ?」
いや、今の若者は違うのかもしれない。時代についていけずにグチグチ言うだけの、世間から浮いたオヤジにはなりたくない。遅刻しない限り、文句は言わないでおこう。
「あ、あの!」
「ん?」
大きな声で呼ばれて、俺は振り返った。そこには、シワ一つないきれいなリクルートスーツを着た、若い男が立っていた。そいつは、おずおずと俺に声をかけてきた。
「村上様、ですか?」
「あ、あぁ、君が新人の……」
「は、はい! 吉岡と申します! すみません、遅れてしまいました……。道を歩いていたら、突然ヌーの群れに遭遇して……巻き込まれて……やっと抜け出したところです」
んなバカな。どうせ寝坊したのを誤魔化すために、嘘でもついているんだろう。
「かなり遠くまで流されたんですが、戻る道はヌーがふさいでて……仕方なく迂回して、ここまで来たんです……あ、ほら、ヤッホーニュースに速報で出てます」
「まじか。『動物園から脱走したヌーの群れ、市内の道路をふさぐ』か……」
「ボク、昔から、念じたことが現実になるんです。今日も、遅刻しそうで、なんとか遅刻の理由にならないかな~って思ってたら、ヌーがいっぱい走ってきて……」
「それは大変だったな……」
こいつ、普通じゃねぇ。あまりの衝撃に、俺はヤッホーニュースの画面を開いたまま空返事をした。
「そうなんです! この前の面接のときも、部長さんの髪の毛が中途半端だなぁって思ってたら、事務員さんが持ってきてくれたお茶をひっくり返して、部長さんにかかっちゃって。そこで拭くために持ってきたタオルが、掃除用の硬いやつで……部長さんの髪の毛が半分ほど持っていかれてしまったり」
「あれ、君のせいだったのか」
部長、よくそんなやつを採用したな。ドМなのか?
「いろいろご迷惑をおかけすると思いますが、誠心誠意がんばりますので! よろしくお願いします、村上センパイ!」
「あぁ……」
社会に出れば、それまでとはまた違う人とも出会える。同僚や上司、取引先……それに、頑張ると宣言している後輩なんかは「合わない性格だから」なんて理由で突き放したり避けたりすることはできない。――こんな目を光らせてるやつを、突き放すなんてできないに決まっているじゃないか。俺は、社会人五年目にして初めて先輩になるんだぞ!
「よろしくな、吉岡くん」
「はい! ……ん?」
「お? どした?」
吉岡はあたりをキョロキョロして、首を傾げた。
「失礼ながら、村上センパイのスーツのシワ、どうにかならないかなって思ってたんですけど、その……念じても直らないというか」
「まぁ、このシワッシワのスーツが、俺の普通だからな。直そうとも思わねーし」
「村上センパイの“普通”でいたいという欲に、ボクの念じる力が負けたってことですか⁉」
「そ、そうなるんじゃねーの?」
ふるふると体を震わせる吉岡。泣いているのか? 俺は、後輩をさっそく泣かせてしまったのか?
「村上センパイ‼‼」
「今度はなんだ⁉」
「ボクたち、運命だと思いませんか? センパイといれば、ボクの周りで変なことが起こらなくなるかも‼ ね、そう思いません?」
「思わない! め、面倒なことに俺を巻き込まないでくれ!」
こいつといれば、一日を退屈に過ごすことはなくなるだろう。しかし、俺の目立たず地味な“普通の”ブラック会社ライフは、終わりを告げられたも同然だった。
なぜだか……涙が止まらない。