三題噺のお部屋
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文字数 890文字
左手の人差し指と親指を伸ばして他の指は握る。右手も人差し指と親指を伸ばして他の指は握る。指で形作られた四角形越しに僕は僕の世界を切り取る。これは僕にとってのファインダー。カメラ撮影の際にピントを合わせるように、長方形に収まる構図を決めるために指を構える。
四角の中に見えるのはぼやけたビル群。やや霞んで見える灰色の塊が群れを成して、まるで一個体の生物のごとく存在している。どいつもこいつも同じ顔、アイデンティティに欠けた無個性の集合体。画題としては全く相応しくない。面白味が全くない。
アイデンティティに欠けている。
アイデンティティ。
存在意義。
「……馬鹿げてる」
思わず口に出していた。僕はマンションの高層階に住んでいる。今はぼやけて見えるビル群も、数ヶ月前まではそうではなかった。灰色の霞がかかったような世界はもっと色鮮やかで、グレーの群れはどちらかと言えば鈍い金属のような光沢を放っていたように思う。しかし、それを認識するほど僕は自分の部屋の窓からの景色を眺めたことがなかった。興味がなかったからだ。
僕には絵しか描けなくて、だから絵だけでこの歳まで生きてきたのに。風景画で大成出来なかった男が画壇にリベンジ、現代アートに挑戦だなんだともてはやされて、そうして稼いだ金でこんなにいい所に暮らしているのに。
もう、描けないだなんて。
僕が発症した眼病は、このぼけた視界すら僕から奪ってゆくのだそうだ。今はかろうじて無個性なビル群に見えるこの眺望も、光を失えば二度と認識することは出来ない。
僕がまだ風景画を描いていた頃、何度となく手で作ったファインダー越しに世界を見ていた。やがてそうした仕草もしなくなって、己の心中に在り続ける激情をキャンバスに叩きつけるようにして描いてきた。だがじきにそれも出来なくなる。僕の瞳から光は失われるからだ。
喉の奥から奇妙な笑い声のような音が漏れ出て、まもなくそれが嗚咽だということに気がついた。目の病で霞んだ視界が潤んで歪んで溶けていくようだった。
僕の存在意義は、ファインダー越しにしかなかったのに。
作:千石京二
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