『文化の継承』
障子から暖かな陽光が薄らと入り込む、静かな和室で茶をたてる。
私と師匠である有人様以外いない、たった二人だけのお茶会で、有人様は私の作法に誤りがないかじっと手元に視線を向けていた。だが今日は普段の厳しい視線ではなく、どこか穏やかでまるで見守っているかのような暖かい目を向けられた。
心臓がうるさく鼓動し、何度も手元が狂いそうになる。
憧れた師匠の前で恥を晒すわけにもいかず、私は一心不乱に茶をたてた。
「どうぞ」
何とか過ちを犯すことなく無事にたて終え、師匠の前に濃茶を差し出した。
「いただきます」
師匠は左手と、不慮の事故によって義肢となり、上手く動かせない右手で茶碗を器用に持ち上げ、作法の通りに一口、また一口濃茶を飲んでいく。
味の深みにも香りにも自信はあったが、師匠のおめがねに叶うかどうかは分からなかった。
一秒がいつもより長く感じられ、永遠にも思えた。
「ほぅ……」
師匠がひと息つくと、私はごくりと息を呑んだ。
腕を失った師匠の見本はもう動画の中でしか見られない。生でもう二度と師匠が茶をたてるところを見る事はできないし、師匠のたてた茶の味ももう記憶の中だけにしか存在しない。
ここで師匠に認められなければ、私は弟子入りしてから二年間の日々の全てを無駄にしたことになる。
眼を瞑って、私は師匠の言葉を待った。
「陽菜」
「はい……」
「もう、私から教えることは何もありません」
「え……それって、どういう」
何か不手際が、足りなかったものがあったのか、ぐるぐると目まぐるしく脳内で反省点を探し顔を引きつらせる私を見ながら、師匠は穏やかに微笑んだ。
「あなたはもう、一人前の茶道家ですよ」
「……へ?」
喉から情けない声が漏れた。
師匠が、私を、一人前だと認めてくれた。
私は今日、今この瞬間から、正真正銘、一人前の茶道家となったのだ。
自覚すると同時に鼻の奥がツンと痛くなり、両目からは熱い涙がぼろぼろと零れていった。
「う、うぅ……やっと、一人前に、師匠に、認められっ、うぇ……」
「こらこら、せっかくの美人が台無しですよ。さて、弟子が一人前となったのですから、私も誠意をもってお祝いしないとですね」
師匠はゆっくりと立ち上がると、そのまま隣の部屋へ入って行った。何が来るのだろうと涙を拭いながら待っていると、突然引き戸が一気に開け放たれ、和室一面に赤い花が舞った。
「わっ! どうですか? 驚きましたか?」
「うわぁ!? ど、どうしたんですかこんなにたくさん! っていうかこの花って全部、バラ……?」
「はい。全部で999本あります」
「えぇ!? なんでまたそんなに!?」
「ふふ、陽菜はバラの花言葉を知っていますか?」
「え、いえ、すみません……花言葉はそんなに詳しくなくて……どんな意味なんですか?」
師匠はひとしきりバラを撒き終えると、その中の1輪を私の後ろで結っている髪に簪のように差し込んだ。
「バラの花言葉は本数によって異なりますが、999本のバラの花言葉は〝何度生まれ変わっても貴方を愛す〟という意味になります」
「何度生まれ変わっても、貴方を愛す……」
「はい。恋愛の意味で取られがちですが、私は個人的に別の意味を込めさせて頂きました」
「どんな意味を込めたんですか?」
「茶道は古来より受け継がれてきた伝統的な文化です。人から人へ、時代を跨いで現代までに受け継がれてきました。だからきっと、私たちが死んで、生まれ変わった時でもこの味も伝統も残っていると思うんです。なので私は花たちに、何度生まれ変わっても消える事のないこの文化を、そしてその文化を継承していく陽菜。あなたも愛しいという気持ちを込めました」
師匠は少し照れくさそうに頬をかき、目を伏せる。
私よりも茶道を愛し、後進の育成にも誰よりも力を注いでいた師匠の言葉は、何よりも重たかった。もう満足に茶をたてられない今でも、師匠の茶道に対する想いは誰よりもまっすぐで、真摯だった。
「師匠……私、私も、もし生まれ変わってもこの伝統をまた継いで行きます。あと、生まれ変わってもまた師匠の弟子になりたいです! いや、なります絶対に!!」
必死に、食い気味に答える私を見て、師匠はそうですかと小さく呟いた。前髪に隠れあまり見えないが、師匠の頬はわずかに紅潮し、両の眼からは涙を流していた。