「児玉さん、悪いけどこの書類をAデザイン事務所の中村部長に届けてほしいんだけど。」
詠子の上司 米倉は書類の入った茶封筒を両手で手渡して事務所を後にしようとドアを開け、思い出したように振り返り、
「月末は決算処理で忙しくなるだろうから今日はこのまま直帰してかまわないから。じゃあ宜しく頼むわね。」と告げてエレベーターへ向かった。
詠子は軽く会釈をし、腕時計を見たあと携帯用時刻表を確認した。
デスクワゴンの中から鞄とマフラーを取り出して、その取り出した隙間にノートPCをしまいこみ施錠した。
「先輩、今日十三時頃に雨降るみたいですよ。」
「あ、そうなんだ。」
一旦施錠したデスクワゴンの鍵穴にキーを差し込み、中から折り畳み傘を取り出した。
斜め前のデスクに座る後輩の渡部は十歳年下とは思えないほど気が利くし頼りになる。それにオシャレだ。靴とネクタイを見るたび詠子はいつもそう思う。
タイムカードをレコーダーに差込み退出時間を刻印し足早に退勤した。
詠子が勤める会社はJR沿線で札幌駅から西へ三つ目の駅前にある。書類の届け先は札幌駅前のビル内だから退勤して五〇分後にはお使い事を済ませて人気のスープカレー店のカウンターの椅子に座って落ち着くことができた。いつも店の前は長蛇の列ができていて、待ち時間に気合が必要だったが、店に着いた時点で七人待っていただけ。ちょうど店内一度目の回転のタイミングだったらしく一人客の二人とグループ客四人が店から出てきた。
「今日は運がいい日だな!」
再び店内は満席状態。カレーが出てくるまでは少し時間がかかりそうだな。
詠子は立ち上がり入口前に設置されていたマガジンラックの中の雑誌に手を伸ばし、
この店が掲載されている箇所に付箋が張られた札幌の街を楽しめるグルメ情報誌を手に取り自分の席に戻った。
パラパラとページをめくっていくと、突如見覚えのある人の顔写真が目に飛び込んできて手を止めた。
「金属に魅了された新鋭の女流彫刻家 沢田 ひかりさん。
初の個展開催への意気込みと自身の作品を語る。」
その見出しをしばらく見つめて記事を隅々まで読み通した。
中学時代のクラスメイトの沢田さんが彫刻家になっていたことを初めて知った詠子は記事の規模から、力のあるアーティストであることが証明されていて興奮を隠しきれずコップの水を一気に飲み干した。
当時の私は、マラソン部に所属し放課後はひたすら校舎内のグラウンドを走り続けていたが沢田さんは美術部に所属。
無口で大人びた雰囲気を醸し出す神秘的な彼女に密かに憧れていた。
記事の末尾の横には彼女の手がけた立体造形作品の写真が一点掲載されていた。
作品のタイトルは「雲の岩」。
大小さまざまな無数の泡のような丸い穴をあけた金属の板を、何枚も溶接してつなぎ合わせ、中が空洞の巨大な岩のような立体造形。かなりのダイナミックさとスケールが見て取れた。
この「雲の岩」という作品を間近で見てみたい、そして沢田さんに再会したいという想いが込み上げてきた。
個展開催期間を確認すると今週月曜日から今月末までだ。
「よし!カレー食べたら見に行こう!」
久しぶりにワクワクドキドキ、楽しい気持ちになった詠子のもとに
「大変お待たせいたしました!チキンスープカレー 辛さ十倍、ルー大盛りです!」
今日はランチもこれから向かう場所も刺激的。
約一時間前には想像もしていなかった予期せぬ展開に心躍らせながらスプーンをもって、
誰にも邪魔されない至福のランチタイムを満喫した。
ふと窓の外を眺めると、しとしとと雨が降り出していた。
お使い事を頼まれてよかった! 折りたたみ傘も持ってきてよかった!
詠子は米倉部長と後輩の渡部に、そっと心の中で感謝した。