「お弁当をね、持って来たの」
わたしはそう言って、肩に掛けていたバッグから弁当箱をふたつ、取り出した。
「まだ春は来ないし桜も咲いてはいないけど、今日は比較的暖かいし、何よりあなたに食べてもらいたかったから」
そのへんに適当に座る。石の冷たさがスカート越しに伝わってくる。
「わたしのしていることはおかしいことなの? ……仮にそうだとしてもあなたにはもうどうでもいいことだろうけど」
スマートフォンを取り出す。動画サイトに接続し、彼の好きな作曲家の名前で検索する。再生ボタンを押すと、数年前に来日したピアニストが弾いた曲が流れ出す。わたしには音楽のことなんて分からない。詳しいことは何も知らない。
けれど彼が、わたしの作るだし巻き卵が好物であるということは知っていた。何度も一緒に食べたからだ。サークルの花見のお弁当で。一緒に暮らした短い期間のなかでの、朝ご飯で。
「あなたと、あなたが好きなピアノの演奏会に行ってみたかった。あなたの話はいつも難しくって、楽譜すら読めないわたしには到底理解できなかった。それでも、わたしはあなたともっと、一緒に」
灰色のつるりとした石に触れた。ひどく冷たい。その下に彼が眠っているとは考え難かった。考えたくないのかもしれなかった。いや、認めたくないだけだった。
「あなたが死んだのも、こんな肌寒い春の日だった」
静謐な空気を満たすピアノ演奏は、それほど大きな音量ではないのにやけにくっきりと聴こえた。彼にも聴こえているのかもしれなかった。そんなことはあり得ないと、頭では、分かっているのに。そう思いたかっただけだった。
「わたしがかじっただし巻き卵を、ここに供えていったなら、それは間接キスになるの?」
わたしの問いは、ピアノの旋律に掻き消えて、あなたにはもう届かなかった。
千石京二