『月夜』梁根 衣澄
「やっと終わった……」
今の今まで残していたテストの採点作業を片付け、静野はふぅ、と短くため息をついた。時刻はもう深夜をまわっている。
厳しい冬が過ぎ去り、だいぶ暖かくなってきたとはいえ、三月の宵闇は未だ冷たい風を運んでくる。静野が普段から作業部屋としてつかっている地下室には空調設備が無いため、気温はかなり下がっていた。
「やっぱり地下室にも電気を通した方が良かったのかな。でも、もうどうでもいいや」
鳥肌が立った腕を少し擦って、静野はそっと背筋を伸ばした。凝り固まった身体を解していく。すると、全身に血が巡ったのか、じわじわと自らの体温を感じ始めた。
「これ以上ここにいたら、君を心配させてしまうかもしれない。僕もそろそろ休むとしよう……」
そう呟いて静野は茶封筒に入れたテストを手に立ち上がった。明かりの代わりに薄く灯したロウソクに息を吹きかけると、地下室は完全な暗闇に包まれた。
「わ、暗い」
スマホの明かりを頼りにして、彼は地下室をあとにした。
今まで集中していたからか、静野は全く眠気を感じていなかった。このままベッドにもぐりこんだとしても、とても眠れそうにない。
「そうだ、気分転換に海を見に行こう。君もいつもそうしていたよね。幸い、明日から
仕事はないんだから……」
すると静野は、ポケットから車のキーを取り出して、寝室とは逆方向にあるガレージに向かった。
「こんな時間だけど、少し遠出だ」
海岸沿いを早めのスピードで走る。街灯が水面に映り、キラキラと輝いている。
「涙は人が作るいちばん小さな海なんだって。この母なる海を見ながらならば、僕も涙を流して良いだろうか?」
小さな展望スペースに愛車を停め、静野は柵にもたれ掛かりながら声を立てずに泣いた。海から吹く風が、ゆらゆらと彼のコートを揺らす。
「君は今、何処にいるんだ?僕には見えない何処かで、情けない僕の姿を嗤っているのかな……?」
静野は、半年前に最愛の妻を亡くしたばかりだった。教職に復帰し、生徒と接し、仕事に没頭して忘れようとしていたが、心の支えとなっていた教え子達の卒業を期に、溜まっていたものが一気に溢れ出してきてしまった。
「稼いだって稼いだって、そう、もしも百万ドルあったって、君を蘇らせることは出来ない。お金なんて今の僕にはただの紙切れだ。君がいないと、僕は何も出来ないんだ……」
静野はフラついた足取りで、落下防止の柵を乗り越える。生きることはもう諦めた。死ぬのは怖くない。
「ぼくは、またきみにあいたい!」
どこか吹っ切れたような顔で、静野は叫んだ。
そして、その身を瑠璃色の海に投げた。
愛車の中に、採点済みのテスト用紙を残して……。