「焦燥の谷で」日野原 朋

文字数 1,137文字

 明らかに、出遅れていた。

 夏休みが明けて顔を出してみれば、ほとんどの奴が「内定」の二文字を手に入れていたのだ。

 オレンジ色の残暑がジリリと、着慣れないワイシャツの襟元に食い込んでくる。ネクタイを緩めようと鞄を持ち替えたとき、ズボンのポケットが低く唸った。

「もしもし」

 搾り出すようにしなければ声がでてこない。体の真ん中に空洞を感じるってのは、一体どういうことなんだ。

「…あっ! ごめんなさい間違えました」

 若そうな女の裏声だった。舌打ちしながら通話終了ボタンを押すのと、何やってんのーギャハハと聞こえたのは、ほぼ同時だった。携帯の「向こう側」が、今どんなことになっているのか、一部始終が見えるようだった。つい数ヶ月前までは、自分もそこの住人だったのだ。傍若無人。一般常識対策に覚えた四字熟語をこんな形で体感するとは。

 西日を照り返すオフィスビルが、垂直にそそり立つ岩のようだと思った。スパイ映画の主人公でもない限り、あれを制覇するのは不可能だろう。今の自分を信じることはできないが、失敗することを信じるのはたやすい。ここはまるで、谷底だ。昨夜磨いたばかりの革靴が、土埃をかぶってくすんでいる。

 重い首をもたげると、ガラス窓の反射に目をやられた。光は打ち返されたピンポン玉のように飛んできて、まともに喰らってしまった。オレは今きっと、痛そうな顔をしているに違いない。

 おや。

 こんな所に社台があっただろうか。

 ビルとビルの間に、小さな紅い鳥居が建っていた。鳥居の両側には奥に向かって、伸びやかな木々がほぼ等間隔で並んでいる。赤と緑のコントラストが素直に美しい。中央の小道をどのくらい行けば、御神体と対面できるのだろう。

 さらさらさらさら。さわさわさわさわ。

 どこからか、せせらぎが聞こえてきたような気がした。そう。気がしただけだ。高層ビルの街で偶然見つけたこの場所が、水源へ誘う沢を連想させただけだ。

 もしも、その水を飲めたなら、どうなるのだろう。たまらず瞼を伏せた。冷たく、甘く、喉をひらき、体内へ流れ落ちてゆく感覚を思うだけで、汗まみれの背中に清涼が駆け抜ける。焦りや苛立ち以外のものが心に溢れたのは久しぶりだった。

 明日の面接はきっと。

 辺りはいつの間にか、茜と藍のグラデーションに変わっている。まばらに灯り始めた街灯が、蛍のようだった。


2019/03/03 08:24

CHIHIRO_F

オフィスビルを岩に見立てて、都会の真ん中に蛍の舞う沢を作り出したこの作品、就職活動中の青年のひりひりした焦りもリアルに描かれていて、日野原さんの筆力を感じました。「ピンポン玉のように飛んでぶつかってくる光」などにみられる比喩描写も巧みです。目に見える情景の向こうに、心象風景が浮かんでくる、さわやかな短編をありがとうございました!
2019/05/07 12:37

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