千石京二

文字数 1,749文字

———ここにあるのは一冊の本、暗がりの中で語られるは一つの童話。しかしそれはとても幼い子らが喜ぶような、易しくて優しい物語ではございません。けれど貴方が真に心の底から望むならば、わたくしはこのお話を、貴方のためだけに物語るでしょう。夜更けにさざめく海のような、枯れ果てた井戸のような、地獄にも似た静けさで———






  古本屋で何気なく手に取った古ぼけた文庫本は、そのような書き出しで始まっていた。私の興味を惹く少し変わった文体ではあったが、童話と言うのに子供向けではないというのは一体どういうことだろう。

  文庫本には裏表紙や表紙をめくったカバーの返しにあらすじが書いてあることが多いので、私はその本を矯めつ眇めつ、そのような文言がないか探す。しかし裏表紙もカバーの返しもただくすんだ色をしているだけで私が求める情報は何一つ載っていない。表紙に記されていた著者名は見た覚えも聞いた覚えもないものだった。いかめしい文体で記されたタイトルをもう一度見る。


  「蛙の吹奏楽」。


  どことなく奇妙なタイトルだと感じた。


  カエルから「歌」を連想することはある。カエルはげこげこ鳴く生き物だし、実際そのような童謡もあるのだ。しかし吹奏楽とカエルのイメージはどうも噛み合わない。ホルンやクラリネットを吹く擬人化されたカエルをイメージしてはみたが、どうも不自然でおまけに可愛らしくもない。鳥獣戯画という古い絵のことは知っていたが、ウサギと相撲を取るカエルは滑稽に思えても吹奏楽をするカエルは想像しづらかった。


  なぜ、この名も知らぬ作者はカエルと吹奏楽を結びつけたのだろう。そして子供向けでない童話とはどういうことなのだろう。


  何となく引っかかった。


  個人経営の小さな古本屋であまり長時間立ち読みするのも気が引ける。いっそ買ってしまおうか。古そうな文庫本だし、どうせそれほど高価ではないのだろうと思って背表紙に値札のシールを探すがそれも貼られていない。


  私は古本屋巡りをするのが好きだが、このひなびた古書店に来るのは初めてだった。


  他の古本屋ではコーナーごとに文庫本の価格が定められていたり、小さく切った紙片に値段が書かれていて、それを本の奥付けやその後ろのページに挟んであることもある。この奇妙な本はいくらで売られているのだろう。私は文庫本を後ろからめくってみた。

  しかし金額が記された紙片はどこにも見当たらなかった。奥付け、文庫本のために著者が書き下ろした後書き。私の視線はそれらをぱらぱらと通り過ぎて、そして物語の最後の一文で停止した。












———蛙の呪いはキスでとけます。












  奇妙な一文だった。










  あれ、なんだか、急に目の前が暗くな




































「…………ん」


  居眠りから目覚めた古本屋の店主が欠伸を嚙み殺していると、ばさりという音が聞こえた。


  何だろうと思って見に行くと、店内奥に文庫本が一冊落ちている。辺りを見渡すが客と思われる人影は無い。


  そもそもこの古本屋はほぼ定年後の道楽でやっているようなものだから客の入りも気にしていないし、商品である古本の仕入れもひどく雑だ。知人のツテや大手古本屋チェーン店のワゴンセールで買ったもの、そして自分が過去に買い漁った大量の小説しか店に並べていない。しかし他の何よりも本が好きだという理由だけで古本屋をやっていたし、一応店に並べる前に本の内容を流し見くらいはする。


  ほぼ趣味のような暇つぶしだ。本の仕入れ値と差し引けば小遣い稼ぎにもならないような額しか儲かっていないが、退職金も年金もあるから金には困っていないし、少しカビ臭い本の匂いに包まれて過ごすのは好きだった。




  床に落ちていた本のタイトルに目をやるが、どうにも覚えのないものだった。「蛙の吹奏楽」。これはどこで仕入れた本だったか。本を売りに来る客も少ないから、個人から買い取ったならば覚えているはずだし自分が仕入れた記憶もなかった。まあ自分ももう歳だし、記憶漏れということもあるだろうと考えて棚に戻す。








  げろ、げろ、









  どこからか、季節外れの蛙の鳴き声が聞こえた気がした。






作:千石京二

2018/03/23 18:13

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