第143話

文字数 1,043文字

 言ってから急に恥ずかしさがこみあげて来た。龍太の頬は真っ赤だった。
「そう言ってくれると、嬉しいな。ありがとう」
 山田さんは静かにそう言って、うつむいた。コップの中の氷が、カランと音を立てた。
「そうだ、黒木くん。塾のことなんだけど」
 山田さんが顔を上げて龍太に尋ねた。
「冬の講習から、私も黒木くんたちの行っている塾に通えそうなんだ」
「本当? それは楽しみだな」
「私も、ワクワクしてるんだ。勉強でワクワクするって何か不思議だけど、難しいことやったり、知らないことを知れるのってやっぱりいいよね」
 山田さんの目が輝いていた。さっきまでのどんよりした空気はどこかに行ってしまっていた。
「うちの塾はそこまでじゃないけど、それでも受験の塾だから、やっぱり競争もあるけど」
 言わない方がいいような気もしたが、龍太は口に出してみた。山田さんの勉強に対する純粋さが羨ましいと同時に、それで競争に勝てるのかと心配にもなったのだ。
「うん、もちろん私もここの中学以外に行きたいと思っているし、そのためには競争に勝たなきゃいけないって思ってるよ」
「なら、安心だ」
「その競争だって、辛いところもあるんだろうけど、楽しみな気もするんだよね、私」
「テストの順位、貼りだされるよ」
「黒木くんは上の方で載っているんでしょ? 私は追いかける立場だから、やりがいがあるよね。私、勝っちゃったらどうしよ」
 少し意地悪な目をした山田さんが、たまらなくかわいらしい。でも、山田さんに塾のテストで負けるなんて有り得ないと思ったし、そうさせはしないと誓った。
「じゃあ、勝負だね」
 龍太は咄嗟に思ったことを隠してそう言った。
 それからもう少し話をして、龍太は山田さんの家を出た。山田さんのお母さんも再び顔を出してきて、玄関で見送ってくれた。
 アパートの駐輪場に入り、誰かに見られていないかと周りを見回した。特に誰もいないようだったので安心して自分の自転車のハンドルを握った。自転車を後ろにちょっと引いた時、来た時にはなかったはずの自転車があった。小学生女子が乗っていそうなピンク色を基調にした小さめのママチャリだ。まさか、と思って前輪のドロヨケを見ると「井崎悠子」と名前が記されていた。
 さっきまでとは違う意味で心拍数が上がってきたが、今更どうしようもない。そう思ったところで、吾郎がその先の電柱で待っていると言っていたことを思い出した。さすがにもういないだろうとは思うが、吾郎にはなんと報告しようかと思案しながらアパートの敷地を出た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み