第140話

文字数 1,194文字

「じゃあ、一人で行くしかないってこと?」 龍太が静かに尋ねた。
「そうだよ。黒木龍太君だけが、山田陽子さんに優しくしてくれるんだ」
 きっぱりと言い切った吾郎だが、龍太はその吾郎に目を合わせることが出来なかった。俯いたまま黙っていると吾郎が言った。
「今すぐ、はできないか、やっぱり」
「ううん、吾郎が言ってくれてることは、分かる気がする。多分、泰史の家でああなって、山田さんは落ち込んでいる。そこで、『大丈夫、なんとかなる』とか『山田さんのせいじゃない』とか、言われるとぐっと来るみたいなことだよね」
 吾郎の方が龍太の目を覗き込んだ。
「なんだ、龍太。分かっているじゃないか。それだけでいいんだよ。それで、山田がウルウルした目でお前のことを見つめてくるから、その時に『好きだ!』と言って抱きしめるんだ」
 龍太は驚いて顔を上げた。その顔は見る見るうちに赤く染まっていった。
「なんで、そんなドラマみたいなこと、できる訳ないだろ」
 そんな龍太を見て吾郎は笑い出した。
「そんなん、冗談に決まってるだろ。だけど、少なくとも今そうやって山田に接することであいつのハートをぐっと引き寄せるんだ。告白するのは、まあタイミングを見計らって頑張れ」
 ちょっとの間をおいて龍太は頷き、それを見て吾郎は龍太の手を離した。
「じゃあ、行くよ」龍太は静かに声を出し、自転車に跨った。吾郎も同じ動作をした。
「え? 一緒に来るのかよ?」龍太が困惑気味に尋ねたところ、
「山田の家の前までは行かないよ」と事も無げに吾郎は答えた。
 ついて来てくれるという安心感と同時に、龍太が本当にやるのかどうかを監視されるのかと感じた。あるいはこの結果をいち早く知りたいという野次馬根性だろうかとも思った。
「俺はこの電柱で佇んでいる」自転車を停めた吾郎の口元が緩んでいた。なんだか嵌められたような気もするが、こうしないと山田さんとの距離をもっと近付けることはできないだろうということも頭では理解できていた。
 吾郎が停まった電柱からは一人でゆっくりと自転車を漕いだ。山田さんの住むアパートの駐輪場に自転車を置くのは少し躊躇する。ここに住む井崎さんや他の誰かに見られたら気まずいと思った。でもそこ以外に自転車がある方がかえって目立ってしまうだろう。そんなことを考えながらアパートの横にある階段を登り始めた。
 一段上がる度に鼓動が大きく、速くなるような気がした。なんとなく掌が湿って来た。目的の三階に到達し、あとは廊下を歩いてすぐの部屋が山田さんの家だ。さっき来た時と全然違う心境の龍太は、廊下に入る手前のわずかなスペースに立ち止まって、呼吸を整えた。緊張しているときは「人」と掌に書いて飲み込むんだっけ、と思い出し、二回その動作をした。した後で、この姿を山田さんに見られていたらもっと恥ずかしい、ということに気が付いてしまい、さらにドキドキが強くなった。
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