第53話

文字数 1,198文字

 十月になった。まだ日差しは強いが、下校の時間は少し肌寒い。週末の運動会を控え、学校全体が浮き足立っていた。その中で龍太も焦っていた。それはしかし運動会のことではなく、山田さんとの会話がないまま金曜日を迎えたからだ。今週二組が図書委員の当番日になる火曜日以外、月水木と図書室に寄ったが、山田さんには会えなかった。目が合うことは何度かあったと思う。だから彼女も龍太を気にかけてくれているはずだ。しかしそれ以上に、孝弘と喋っている光景を見せられているような気もする。それを横目に、龍太は泰史と洋一郎の相手をしている。吾郎が入ってくれないのが寂しい。十月になっても井崎さんは、小島さんや土井さんとは話をほとんどせず、鈴原さんの席へ行く。その近くには山田さんがいるので、井崎さんの言動も気になってしまう。

 山田さんに手紙を渡してからちょうど一週間。「武田信玄」を返却する日なので、放課後図書室へ向かった。山田さんはとっくに返しているだろう。今日もすれ違いか、と思いながら返却カウンターに本を置いた。六年生の図書委員がそれを受け取り、小さな棚に載せた。「武田信玄」のすぐ下に、見覚えのある背表紙が横たわっていた。

 山田さん?

 小学校の図書室は返却手続き後にもう一度借りていた本を受け取り、自分で代本板と入れ替える。あの本があそこにある、ということはその作業が済んでいない、という意味であり、山田さんは図書室にいる、ということだ。思わず辺りを見回した。次の本を探しているのだろうか。

 図書委員から「武田信玄」を渡されたその時、龍太の背中に聞き覚えのある柔らかい声が響く。山田さん。間違いない。でも一人ではない。振り返ると格好が悪いので、関心のない振りをしておく。でも、誰といるのだろう? この声も知っているはずだけど……。

 一連の自然な行動を装い、「武田信玄」を手に踵を返した。今気付いたかのような表情というのは難しいが、頑張ってみた。隣は土井さんだった。「漫画家入門」などをよく借りている。そして最初に声を発したのはその土井さんだ。

「あっ、黒木君も来てたのね。最近よく見かけるけど、今日は返却ね」
 最近

見かける。今日

返却。
 つまりこの数日、図書室に現れては何も借りたり返したりせずに去っていく姿を、土井さんに目撃されていたのだろう。龍太は焦って、山田さんを見ることができない。
「黒木君、『武田信玄』、面白かった?」
 察してくれているのか、どうか。山田さんが言葉を繋いだ。
「すごーい、こういうのって字ばっかりだし、怖いんでしょ?」と土井さん。
 これに続いたのは龍太ではなく山田さんだった。
「歴史上の人物だからね。立派なお話とかも入ってるはずよ」

 どうも女子の会話は、目の前に龍太がいてもいなくても関係なく進んでいくような気がする。それは山田さんでも同じなんだな、と思ったところで急に冷静さを取り戻せた。
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