第134話

文字数 1,116文字

「黒木くん、じゃあここで待ってて」
 山田さんの声で我に返った龍太は、階段を曲がってすぐの扉の前で立ち止まった。耳を澄ましていると、足音と山田さんの声が聞こえてくる。扉に耳を近付けたい気持ちを抑えて、大人しく待っていた。すると、扉が開いた。
「黒木くんね。いつもありがとう。これ、飲み物ね」
 山田さんのお母さんだった。授業参観で見たことはあったが、話をするのは初めてだ。
「あっ、はい。黒木です。初めまして。えっと、あ、ありがとうございます」
 山田さんのお母さんは、缶ジュースの入った手提げ袋を龍太の前に差し出した。黒いエプロンをしたお母さんの顔を見るとやっぱり山田さんに似ている。多分龍太の母と同じくらいの年だろうが、綺麗だと思った。
 お母さんの腰あたりから山田さんが顔を出す。
「黒木くん、なんだか緊張している? ははは。じゃあ、お母さん、ありがとね」
 そう言って山田さんはドーナツの箱を床に置き、靴を履いた。白い運動靴は龍太のそれに比べ汚れが目立たない。
「じゃあ、黒木くん、よろしくね」
 そう言う山田さんのお母さんに見送られ、二人は階段を降り始めた。
「山田さん、これ、今日はわざわざ用意してくれたの?」龍太はゆっくりと尋ねてみた。
「うん、そうだよ。この前の文化の日に、黒木くんたちの話を聞いてね」
「どういうこと? 泰史が帰ってくるか分からないのに?」
 階段の踊り場で二人は立ち止まった。
「そうね。何かね、黒木くんと杉田くんがね、泰史くんのことを待っているんだなあ、って私には分かったから」
 龍太は山田さんを見つめる。缶ジュースを入れた手提げ袋の取っ手が龍太の右手に食い込んだ。
「えっ?」
「だから、二人がそんな風に思っているんなら、それは泰史くんにも伝わるはずだな、ってこと」
 山田さんははにかみながら大人のような、テレビドラマのようなセリフを言った。
「それで、お母さんに話したの。そしたら、泰史くんのところはおやつが充実しているけど、帰ってすぐは用意できないでしょう、って。だから奮発するって」
「すごいな。僕はでも、来ないかもなあ、とも思っていたけど」少し小声で龍太が言う。
「そりゃあそうだよね。私もそう言いつつ、このドーナツ、全部うちで食べるのは大変だぞって、思ってた」
 そう言って笑う山田さんは本当にかわいい。
「まあでもさ、黒木くんや杉田くん、石黒くんは来るはずだから、四人で食べてもいいかなって」俯き加減になって山田さんは付け加えた。
 龍太も頬に熱が集まってくるような気がして来た。このまま二人で話を続けたいが、そういう訳にはいかない。
「あ、あいつら、待ってるよね。急ごう」
 日の当たりにくい階段を出て、二人は早足で歩きだした。
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