第72話

文字数 1,195文字

「さようなら」
 一斉に声を上げ、ガガガッと皆が椅子を押す。その音が続く中、昼休み以降一層大人しかった昭と孝弘が龍太のそばにやってきた。
「龍太、お前今日、塾だったな?」と孝弘に確かめられ、うん、と頷いた。急に殴られることはないと思うが、身構えてしまう。
「泰史、多分もう野球も来ないよ、きっと。じゃあな」
 睨みながら二人は教室を出て行った。隣で井崎さんが「感じワルっ」と小声で言い放ちつつ、声色を変えて鈴原さんのところへ行ってしまった。鈴原さんのよく通る声が教室に響く。そして鈴原さんを囲む女子たちの中から、山田さんの「ばいばい」という声が切り取られる。いつもの光景。泰史のことがあろうとなかろうと、関係なく時は過ぎていくのか。

 この日、生き物係の仕事と塾とが重なっていた。井崎さんはやはり糞掃除をしないので、空き時間に糞は始末しておいた。後を井崎さんに任せ、廊下に出た。日差しが入り込まない階段の手前で、山田さんに追い付いた。山田さんは図書委員の日なので、階段は降りずに渡り廊下を進むはずだった。
「山田さん。土曜日、ありがとう。クッキーも美味しかった」と龍太は声をかけた。「あっ、黒木君。私の方こそ、ありがとう。泰史くんのおばさんに、なかなか本当のことを言えなくて、どうしようかと思ってたから……」
「泰史、学校来るかな?」
「そうだといいんだけど……あっ、そうだ。黒木君。今日は時間ある?」塾に行かねばならないし、今日はテストがあるのだが、山田さんの誘いは断れない。「少し、なら」「そっか、塾だもんね」

 二人で階段を降り、外へ出る。体育用具が入る小屋のそばにあるブランコ前で立ち止まった。校舎からは見えない場所であり、校門に向かう流れとも異なる。あまり騒がれる心配はない。
「今日は委員のあと、野球の練習を覗きにいくんだ」
 以前、河川敷で山田さんを見かけたことを思い出し、ドキッとする。わざわざ俺に言うかな、と思いながら話をつなぐ。
「へえ。泰史が来るかどうか、って?」
 言いながらちょっと膝が震えた。
「それもあるんだけどね。鈴原さんからマネージャーやろう、って誘われて」
「マネージャー? 少年野球に?」
「あ、やっぱりそうよね。要らないんだよ、そんなの」
「中学の部活ならまだ分かるけど、小学生でしょ? 仕事ないよね」
「分かった。有り難う、聞いてくれて」
 これで、今日の練習は観に行かず、マネージャーの件もなし、となるかは分からない。いや、約束はしているみたいだし、泰史の件もある。
「泰史くん、今日練習来るかな……。あと、黒木君の塾のこと、今度教えてね。じゃあ」

 やはり今日は観に行くのか、と残念な気持ちで図書室に行く山田さんの背中に手を振った。少しタイミングをずらして校門へと進む。敢えて飼育小屋は見ないことにした。そして最後の一言を反芻した。山田さん、マネージャーはやらずに、塾に入ってくるとや?
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