第111話

文字数 973文字

 昼休みの会話で、確かにそんなことを言ったように記憶している。龍太としてはしかし、選択肢はいろいろある、とあくまで客観的に言っただけのつもりだ。まさかそんな風に受け取られるとは。
「あ、いや、それは山田さんに一番合う塾が、僕らのところかもしれないし、そうでないかもしれないし、っていう意味で、付いて来れるとか来れないとかの話じゃなくて」
「どうだかね。ま、いいですけど」
 さっきから山田さんが何となく不機嫌だった理由は、きっとこれだ。龍太の方が成績がよいのは確かだが、龍太自身に山田さんを馬鹿にするつもりは毛頭ないし、それどころか同じ塾に通ってくれるのは大歓迎なのだ。それがこんな形になるなんて。
 言葉を継げずにいた龍太だが、気が付けば御手洗宅に到着していた。山田さんも機嫌を戻したようで、龍太に微笑みかけている。
「じゃあ、黒木君。入るよ」
 そう言って山田さんは前の時と同じように、門についているブザーは押さずに閂を開ける。龍太たちが土曜日にここを訪れる際は、もちろんこのブザーを押す。そして門の外で泰史のお母さんを待つのだ。山田さんが泰史の家と関係が深いことを改めて意識する。
 いくつかの敷石を踏んで、玄関に着いた。そしてドアのそばにあるインターフォンを押す。
 建物の中から機械的な音が聞こえてくる。いつも数秒で反応があるのだが、一分ほど待っても家の中で人の動く気配すらない。
「あれ? おかしいな。昨日はいつも通りだったんだけどな。おばさん、買い物かな?」
 山田さんがドアノブを回そうとするが、うまく動かない。やはり鍵がかかっているようだ。
「どうしよっか? 折角黒木君も来たのにね。プリント、ポストに入れておこうかな。ね?」
 そう言って山田さんは龍太の顔を覗く。さっきまでのちょっと拗ねた表情との違いに、龍太は心臓が高鳴るのを自覚した。
「う、うん、そうだね。でも家の中も静かだな。泰史もいないのかな?」
「まあ、いても出てこないでしょ。じゃあ今日はこれで帰ろう」

 門を出たところで、山田さんはあっさりと「ばいばーい」と手を振って自分のアパートに向かって歩き出した。後姿を見送りながら、龍太はぽっかりと心に穴があいたような感覚になっていることに気が付いた。明日も山田さんには会える。でも、これでいいとや?

「山田さん、ちょっと!」と大きな声で呼び止めた。
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