第112話

文字数 1,100文字

「なに?」
 立ち止まって山田さんは龍太を振り返った。龍太は思わず、山田さんに駆け寄った。
「あの、塾だけど」
「うん」
「うちの塾は、大きな進学塾とは違うし、途中から入ってくる人も結構いるんだよ。だから」そこで龍太が口ごもる。
「だから?」
「例えば来月に山田さんが入りたいってなれば入れるし、その時は何でも助けられると思うから」
「から?」山田さんは、龍太の語尾を捉えて繰り返す。
「思うから、十二月から、頑張ろう、うん、そうしようよ」
 龍太は手のひらの汗を感じながらも、喉のつっかえがとれたような爽快な気持ちになった。
「そうね。考える。っていうか、お父さんとお母さんに相談しなきゃ。今は月水金の週三回よね?」
「そ、そう。週三回。五時半からだから、夕飯は早く食べておかないと」
 龍太が言うと、山田さんの目元が緩んだ。
「はは、そうね。そのあと遅いんだもんね。おなか鳴っちゃうよね」
「俺も、吾郎も、食べてくるけど帰りはおなか空いてるよ」
「そのあと食べると、太っちゃうよ。教えてくれてありがと。じゃあ、今度こそ、ばいばーい!」
「うん、バイバイ」そう言って龍太は山田さんに背を向け、歩き出した。先ほどと違って山田さんはその場に立ち止まって手を振ってくれているようだ。振り向くのは照れ臭い気がしたが、山田さんの顔をもう一回見たいと思った。数歩先の電柱に着いて、振り返るとまだ山田さんは先ほどの場所にいた。軽く右手を挙げて手を振ると、山田さんは大きく手を振ってくれた。誰かに見られたら恥ずかしいかも、と思いながらも心が弾む。この先は上り坂でカーブになる。曲がってしまうと山田さんの姿は見えなくなる。のろのろと歩きたい気持ちは、抑えなければならない。
 カーブにさしかかってから、龍太は小走りになった。早く帰宅したい訳ではないが、足が勝手に動いてしまう。明日になればまた山田さんに会え、もしかするとこうやって二人で泰史の家に来ることができる日もあるだろう。その点では、泰史が学校に来なくなったことに感謝しないといけないのかもしれない。更に、来月になれば塾でも山田さんに会えるかもしれない。マラソン大会でもないのに上り坂で早足になれる自分に、龍太は驚いていた。

 家に着くと、母と弟の俊太が一緒に夕飯の支度をしていた。自分も俊太くらいの頃にはよく母と台所に入ったなあ、と思い出す。あの頃はまだ宮崎に住んでいた。俊太は母におんぶされていた。まだ自営業ではなかったので、母にはゆとりがあったはずだ。なので今、俊太は自分の頃よりもこうした機会が少ないはずだ。そう思って龍太は、「ただいま」と声をかけただけで、自分の勉強部屋に入っていった。
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