第60話

文字数 1,155文字

 いつもの朝。窓際に昭と孝弘。昭のノーバウンド返球を思い出すと気後れしそうになる。昨日グラウンドに行ったことを悟られないよう、いつも通りに龍太から「おはよう」と声を掛けた。無視される可能性もあるかと覚悟していたが、返事をしてくれた。しかし、そこまで。特に話題は振られず、龍太は自分の席へと戻った。

 山田さんが入ってきた。昨日はどうしてグラウンドに行っていたのだろう。どうしても気になる。当然のように孝弘が話しかけていた。龍太はその会話に集中した。もちろん、一時間目の国語の教科書を読むふりをしながら。しかし、なかなか聞き取れない。そしてもうすぐ泰史の声が耳に入ってくるはずだ。盗み聞きは諦めようと思った。

 井崎さんが隣に戻ってきた。運動会で活躍した泰史を直接褒めていたはずだが、昨日は今まで通りほぼ無視だった。龍太にもあまり話しかけてこない井崎さんだが、今日は違っていた。「今日、御手洗くんはお休みかなあ」

 確かに、普段より明らかに遅い。いつの間にか洋一郎は自分の席に座っている。朝の会で担任教師から、風邪で休みだと告げられた。風邪だから野球も休んだのだろう、龍太は納得した。泰史のいない一日。だからといって何も変わらないように見える。後ろの席が静かだ。普段は聞こえない、小島さんと土井さんの漫画談義が意外に面白い。龍太が知っている少女漫画は国民的アニメになっている「クッキークッキー」くらいなので、もちろん話には加わらない。いや、知っていてもカッコ悪いので聞いているだけにしただろう。同時に、注目されないようなクラスメイトにも、それぞれ得意なものがあるのだなあ、と実感した。

 帰りの会で担任は、泰史の家にプリントや宿題を届ける仕事を山田さんに頼んだ。山田さんが泰史の近所に住んでいることは知っていたので仕方が無いのだが、やはり妬ましい気がする。泰史のことも気になるので、一緒に届けに行こう、と言いたいのだが、今日は生き物係の当番だ。井崎さん一人に任せて先に帰るなんてことは、仕事の責任としても、彼女の性格からしてもあり得ないだろう。それ以前に、山田さんにそんな提案をすることなど出来ないのだが。

 龍太は今回も一人で糞を集め、校舎の裏にある焼却炉に投げ込んだ。この間にきっと井崎さんは教室に帰ってしまうだろう。そしてまた鈴原さんたちと合流しているのだろうな、と思いながら飼育小屋に向かった。バケツを小屋に戻し、さっさと家に帰って塾に行かなければならない。気持ちを切り替えようと、小屋の扉を開けた龍太の目に、井崎さんが飛び込む。「あれっ? 井崎さん。小屋にいたんだ?」ちょっと嫌味なセリフだったか。口にしてから少し悔やんだが、もう仕方がない。

 が、井崎さんからは、「うん、ちょっとね」と、意外な反応が返ってきた。
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