第70話

文字数 1,171文字

 泰史が昭や孝弘とうまくいかずに、いじめられていたことを、そのお母さんに伝える。もちろん全く知らなかったということはないのだろうけど、クラスの子たちから聞かされるのは、かなり重いだろう。龍太も極力傷つけないように、言葉を選びながら話を付け加えた。こんな展開になって、泰史も迷惑だろうな、と思って時々顔をうかがうが、あまり表情に変化がないようだ。でもソワソワ動いている。そりゃあ、そうだよな。でもこれをきっかけに、何かがうまく回ればいいな。皆がそう思ったはずだ。


「みんな、ありがとう。泰史が学校に行きたくない理由はよく分かりました。それにあなたたちが泰史の味方になってくれることも分かりました。この子も反省しなきゃいけない所はあるけど、ちょっとひどいわね。この先は大人の話にします。あなたたちの名前は出さないようにするけれど、泰史のことをお願いしますね」


 さすがにお昼を食べていきなさい、とは言われず、少しがっかりしながら御手洗邸の門を出た。緊張が解けたのか、井崎さんと龍太の腹がほぼ同時に鳴った。山田さんも含め、三人で笑った。女子二名は家が近くなので、帰ればすぐに昼ご飯が待っている。まずないとは思うものの、山田さんに誘われたりしないかなあ、と淡い期待を抱く龍太。つい山田さんと目が合ってしまった。
「黒木君、お腹空いたよね。おととい作ったクッキーがあるから、あげるよ」
 まさかの申し出に目を見開いてしまった。ありがとう、と龍太の口から出る前に、井崎さんが割り込んできた。「えっ、クッキー作ったの? すごいなあ。私も食べたい!」

 結局、山田さん、井崎さん、そして龍太の三人でクッキーを食べることになった。昼食前だから、一個ずつにしなさい、とお母さんに言われた山田さんはきっちり三つをテッシュに包んで持ってきた。アパート一階の階段入口。秘密めいている気もするが、井崎さんがいるので全くそんなことはない。これから十五分くらい歩く自分も、同じく一個なのか、と龍太は残念に思うが、その気持ちを見破られないように表情を作った。

「陽ちゃん、これすごく美味しいね」半分齧った井崎さんがモグモグと咬みながら言う。
 バターがちょっと強い気がしたが、マンガによく出てくる砂糖と塩を間違えるとか、そういうことは無く確かに美味しい。「ほんと、すごいよ、お店のやつみたいだ」半分嘘だけど、こう言っておかないと。「ありがとう! うれしいなあ。お母さんやお父さんの言う美味しいは嘘かと思ってたから、ほんと、うれしいなあ」
 半分のクッキーをしっかり飲みこんだ井崎さんがニタニタしながらこっちを見た。「黒木君には、特別美味しいクッキーだよねえ」
 龍太はびっくしりして井崎さんを見た。こいつ、何を……そして顔面がどんどん熱くなっていくのを感じた。やばい、真っ赤になっているぞ、俺。
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