第90話

文字数 1,082文字

 吾郎が取り出したのは、赤茶色のグローブだった。三人が泰史の反応を見守る。数秒の間をおいて、泰史が口を開いた。
「なんだよ、キャッチボールか。久しぶりだな。吾郎、下手になってるんじゃないのか?」

 一学期に野球チームを辞めた吾郎。その頃の泰史は、クラスでも野球チームでも目立つ存在だった。そして、気に入らないことがあるとそいつを標的にいじめを始める。吾郎が野球を辞めることになり、泰史は吾郎を攻撃した。その吾郎が泰史に小学生用の白い軟球を手渡す。すごい場面だなあ、と他人事のように見つめていた龍太だったが、洋一郎が背中リュックを前に抱え直し、ファスナーに手をかける動きをみせたので、遅れないように自分もグローブを取り出す。洋一郎と龍太のグローブに比べ、二階から戻った泰史の左手にはまったグローブは光沢が無く、使い込まれてたことが明らかだった。
「あっ、洋一郎と龍太もやるんだよな? 俺の球、受けれるかあ? ははっ」
 この得意気な笑顔。数か月前は腹立たしかったその表情も、今では懐かしく感じる。「俺、お父さんと時々やってるから、大丈夫だろ」と洋一郎が言う。嘘はつけないので龍太は黙っていたが、皆で御手洗家の畑を横切って未舗装の空き地へと歩いた。ここも泰史の家が持っている土地だ。一部に砂利が敷き詰められ、「月極駐車場」の看板が立っている。山田さんや井崎さんが住むアパートの人が使うのだろうか。土曜の午後、車は数台しか置かれていない。

 まずは吾郎が、泰史に山なりのボールを投げた。少し左に()れたが、何事もないように泰史はそれを捕り、「もっとちゃんと(ほお)れ!」と叫んだ。そして姿勢を戻して洋一郎に向かって投げる。パシッと心地よい音が響く。そして洋一郎が、「痛ってえ」と騒いだ。泰史のボールは勢いがあるようだ。それを受けずに済んだ龍太だが、実のところ少し寂しい気もする。洋一郎が投げたワンバウンドの球をしっかり受けて、吾郎に投げる。が、吾郎が構えるグローブの手前で地面に落ちていく。「おっと」といいながら捌く吾郎。そのままきれいに泰史へと投げる。さすがだなあ、と感心した。しばらくブランクがあっても、二人とも上手だ。吾郎と泰史も、龍太、洋一郎とは力の差があるのは分かっているので、途中から順番を入れ替えたりして楽しんだ。龍太は泰史から、「肩だけじゃなくて、こう、腰を(ひね)るように投げると、遠くまで届くぞ」と教えられた。少し悔しい気もしたが、やってみると確かにその通りだ。やはり上手い人の言うことは聞くものだ。そして嫌なところがあっても、仲良くするのは大事なんだろうなあ、とも感じた。
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