第三章 五話 「哨戒艇」
文字数 4,504文字
「メイナードだ。偵察の結果はどうだった。」
通信士から無線の交信機を受け取ったメイナードの低い声がコントロールルームの空気を震わせる。交信機に耳を当て、無線の向こうにいるウィリアムの言葉を何も言わずに聞いているメイナードの横顔を見つめたサンダースは緊急無線の内容を想像して息を呑んだ。
「そうか、二次回収地点でも無理か…。では、君の指定した座標ポイントを新たな回収地点に設定し直そう。交信終わり。」
無線の向こうから聞こえてくる声を聞いていた数秒の沈黙の後、そう言って無線機を通信士に返したメイナードはサンダースの方を振り返ると、ウィリアム達からの無線の内容を伝えた。
「待ち伏せを発見したらしい。」
「待ち伏せ…?」
敵の気配がする、という無線連絡は聞いていたが、あって欲しくはなかった最悪の事態に、思わず聞き返したサンダースを見返し、メイナードは静かに頷きながら続けた。
「先刻の無線連絡の後、偵察を出した結果、部隊の前方百三十メートルの位置に敵の待ち伏せを見つけた、とのことだ。」
待ち伏せがどの程度の規模なのか、そもそも何故待ち伏せされたのか、様々なことを考えながらサンダースはメイナードの話を聞いた。
「回収地点を再度、変更。座標ポイント〇-三-〇に三次回収地点を設定した。」
その言葉と同時に、二十分前と同じ警告音が指揮室の中に響き、壁の電子地図に記された赤色光点が再び位置を変え、新たに設定された三次回収地点を示した。
「もしかすると、ブラボー分隊からの支援要請があるかもしれん。部下達に出撃の準備をさせるんだ。」
そう締めくくったメイナードの言葉に表情を引き締められたサンダースは、「了解しました。」と小さく頷くと、部下達に戦闘準備の指令を伝えるべく、指揮室の出口へと向かった。
ウィリアムの指示通り、斜面を降りつつ、南西の方角へと進んだクレイグとイアンは熱帯林の薄くなった藪の中を、動物の動きにしかみえないような匍匐前進で移動していたが、彼らの方もわずか八十メートルも進まない内に、敵の待ち伏せ部隊を発見することとなった。
「カーキ色の戦闘服…、NLF(南ベトナム解放民族戦線)の正規兵だ…。」
藪の間から双眼鏡で前方を睨んだクレイグが呟いた。まだ、待ち伏せの陣地構築が完成していないのか、藪の中に横一列の待ち伏せラインを形成した民族戦線兵士達は姿を十分に隠せておらず、五十メートルほど離れた前方を双眼鏡の拡大された目で見つめるクレイグの視界には、分解して持ち込んだ重機関銃を組み立てたり、塹壕に擬装を施したりする民族戦線兵士達の姿があった。
「先任曹長、上からの視界を確保してくれ。」
クレイグの指示とともに、彼の脇に控えていたイアンが既に監視用に目星をつけていた十メートルほど後方の熱帯樹に向かって、ギリースーツに包んだ身を藪の中に走らせる。見えるだけの敵の陣容を確かめたクレイグは双眼鏡を下ろし、隊内無線を操作すると、ウィリアム達との回線を開いた。
「大尉、クレイグです。残念な知らせが…。」
「何?そちらにも待ち伏せが?」
隊内無線の向こうから聞こえてきたクレイグの言葉にウィリアムは聞き返すと同時に、遅かったか…、と胸の中で独りごちた。
「そのまま警戒を継続してくれ。方針を考える。」
そう言って隊内無線を閉じたウィリアムは、斜面の上方へ警戒に出ていたアールが戻って来たのを見て、クレイグが新たな待伏せ部隊を発見したことを伝えようとしたが、焦った様子の副官はウィリアムの元に駆け寄ってくると、分隊長の言葉を聞くよりも前に双眼鏡を差し出した。
「南東方向、川の下流より哨戒艇です!」
その言葉にウィリアムはクレイグからの無線連絡のことも忘れ、
「味方か?」
とアールに問うた。
「南ベトナムの海軍の軍旗を揚げています。間違いないでしょう。」
隣でアールがそう答える中、双眼鏡を構えて、下流からゆっくりとやってくる河川哨戒艇を拡大された視界の中に捉えたウィリアムは、その細長い船体を詳細に観察した。船体前方部分にあるデッキの上には二連装のブローニングM2重機関銃を装備したターレットを備え、後部甲板には重機関銃を同軸で装備したMk2 Mod1 .50 BMG/81mm複合迫撃砲を据え付けている小型戦闘艇が、マストにベトナム共和国海軍の旗をなびかせているのを確認したウィリアムは双眼鏡を下ろした。
「間違いない。南ベトナム海軍の哨戒艇だ。だが、予定よりかなり早いな…。」
アールに双眼鏡を返しながら呟いたウィリアムは予定の回収時間より四十分も早く現れた哨戒艇を見つめながら、偵察に出ている部下達を撤収させるタイミングを思案し始めた。
「来るのはPBRタイプの哨戒艇だと思っていましたが、あれは高速戦闘艇のPCFですね。」
再び双眼鏡を構え、かつての海軍での知識を活かし、戦闘艇のフォルムから哨戒艇の種類を判別したアールに、ウィリアムは先程のクレイグからの無線の内容を伝えた。
「アール、クレイグ達も敵の別働隊を発見した。既に我々は奴らに取り囲まれている。」
敵に包囲された事実を知り、双眼鏡から目を離して愕然としたアールに、ウィリアムは続けて問うた。
「あの高速戦闘艇に、二個小隊規模の歩兵部隊を追い払う火力はあるか?」
哨戒艇に十分な攻撃力がなければ、待ち伏せしている敵がこちらの撤退に気づいて攻撃してきた場合、ウィリアム達の支援はおろか、船そのものの安全が危うくなる。ウィリアムの疑問は最もなものだったが、アールの返答は彼の不安を杞憂に帰すものだった。
「二基の重機関銃と複合迫撃砲に加えて、M60機関銃まで装備しているんですよ?岸の敵どころか山の中の敵まで排除してくれますよ。もちろん、我々の弾着指示があればのことですが…。」
元海軍兵士としての矜持があるのか、自信に満ちた様子で答えたアールの返答にウィリアムは若干だが、希望を感じることができた。
「ジョシュア、無線機を頼む。」
ウィリアムとアールの傍らに無線機を下ろしたジョシュアが周波数を指定されたチャンネルに合わせると、交信機をウィリアムに手渡した。哨戒艇は川の中央をブラボー分隊のいる方向に向かって、ゆっくりと上流へと進んでいた。
「イアン、リー、敵に動きはないか?」
「岸側、敵に動きはありません。」
「山側、こちらも相変わらずですぜ…。」
哨戒艇との無線交信を開く前に、隊内無線を開いて、偵察に出ている二人の部下に異常のないことを確かめたウィリアムはジョシュアから渡された交信機を顔に近づけた。
「ピア・ワン、ピア・ワン!こちら、ゴースト!聞こえるか?」
五秒ほど、待ったが返信はない。ウィリアムはもう一度、無線機に呼びかけた。
「ピア・ワン、聞こえているか?こちら、ゴースト!応答してくれ、どうぞ!」
「早く応答してくれ…!頼む…!」
必死に交信を試みようとするウィリアムの傍らで、双眼鏡を目に当てて哨戒艇を観察するアールが苛立ちの声を漏らす。
「河川上のPCF哨戒艇、聞こえていないのか?こちらはゴーストだ!我々の位置が分からないのか?」
相変わらず、哨戒艇からの返信がないままの状態が続き、英語がわからないのか、と思ったウィリアムは、ベトナム語の知識のあるジョシュアに通訳をしてもらおうかと一瞬考えたが、そのまま続けた。
「君達の進行方向右手の斜面中腹に幹の折れ曲がった大木が見えるはずだ。我々はその木から二十メートルほど斜面を登ったところで待機している。しかし、岸には敵が多くて近づけないため、支援頼む!どうぞ!」
味方と認識されていない可能性を考え、危険を犯しても部隊の現在位置を教えたウィリアムだったが、哨戒艇からの返答は依然なかった。言いようのない不穏な気配を感じたウィリアムは交信機を置くと、ゆっくりと背後の尾根を見回し、今度は隊内無線を開いた。
「何か様子がおかしい…。全員、各方面への警戒を…。」
強化せよ…、と続く言葉が彼の口から出るよりも先に、ポン、という軽い破裂音が川を挟んだ二つの山の斜面に響き渡り、同時に「大尉!哨戒艇が!」と叫んだアールの声を聞いたウィリアムは川の方向を振り返ったが、状況を確かめるよりも先に、二十メートル斜面を下った場所に生えていた、幹の折れ曲がった熱帯樹が根本から爆発の炎を吹き上げ、地面から突き上げた衝撃と爆風に、ウィリアムは体のバランスを崩し、藪の覆う斜面の上を転がることとなった。
耳鳴りに遮られ、音が何も聞こえなくなり、平衡感覚も失われた一瞬、砂塵に覆われてぼやけた視界の向こうには、青い空が広がり、太陽の陽が滑空する鷲の影を際立たせていた。
「大尉!大尉!」
耳鳴りの向こうから、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。首をゆっくりと右に向けると、ユーリ・ホフマンが両手で頭を覆って泣き叫ぶ姿があった。
「大尉!カークス大尉!」
自分を呼んでいるのは彼ではない。痛む首をさらに動かし、顔をあげるとジョシュアの顔がそこにあった。叫んでいるのは彼だった。その口が大きく開き、
「大尉!」
ともう一度叫んだ瞬間、二発目の迫撃砲弾が少し離れた地点に着弾し、再び地面から突き上げてきた衝撃波に叩き起こされるかのようにして、ウィリアムの意識は現実に引き戻された。
「大尉!哨戒艇が我々を攻撃してきました!岸側の敵も攻撃を開始してきて、マッケンジー准尉達が交戦しています!」
哨戒艇に対してフルオートの火線を張るアールのストーナー63軽機関銃の銃声と地面に突き刺さった砲弾が弾け散る爆発音に聴覚を遮られながらも、ジョシュアの言葉を聞きつつ、上体を起こしたウィリアムは傍らに転がったM16A1を握り、砂を被った自動小銃に異常がないことを確かめて、チャージングハンドルを引くと、隊内無線を開いた。
「イアン!聞こえるか!哨戒艇を押さえてくれ!」
銃声とともに、了解、とイアンの返答が聞こえたのを確認すると、今度は山側の敵と対峙しているリー達にも指示を出した。
「リー、岸側の敵が攻撃を仕掛けてきた。敵を牽制しつつ、後退しろ。全隊、岸側の敵を潰しつつ、南西方向へと退避する!」
そう言って隊内無線を切ったウィリアムは再び、ジョシュアの方を向いた。
「本部に通信!攻撃を受けたことの報告と迅速なる航空支援、並びに回収を要求してくれ!」
ジョシュアが本部への無線連絡を始める横で、ウィリアムは左手でM16A1を、右手でユーリの首根っこを掴み、クレイグ達の応援に向かうため南西の斜面下に走り出した。
「アール、ジョシュア、行くぞ!」
ストーナー63を掃射しながら走るアールの後ろに、ユーリ・ホフマンを庇いながら走るウィリアムと本部に無線連絡をしながら走るジョシュアが続き、斜面を下る三人のすぐ近くに、哨戒艇の複合迫撃砲から放たれた砲弾が次々と炸裂して、泥土が嵐のごとく地面に吹き荒れた。三人は砲弾だけでなく、連装重機関銃の猛射も襲いかかってくる地獄を走り抜けながら、さらなる修羅が待ち受ける川岸の戦闘へと走った。