第一章 十二話 「森の中で」
文字数 3,292文字
駅を出てから、雪に包まれた人家の少ない光景が左右に広がるハイウェイをイエローナイフの町から六キロ進んだところで道から逸れ、獣道とも言えるような、車一台がようやく通れる砂利道を北西方向へ二.五キロ、深い森をかきわけ、山のより深いところへと進んだ頃、男は急に車を止めた。
「ここから先は車では行けん。あんたたちだけで行きな。」
後部座席を振り返った男はウィリアムに小さな紙を手渡した。
「簡単なもんだが、地図を渡すからよ。」
「ありがとう。また、夕方四時頃に来てくれ。」
ウィリアムがそういうと、CIAの男は、よっ、と片手を軽くあげて、細い山道の中で器用に小型車をUターンさせると、山道を麓へと去っていった。
土煙をあげて去っていく車の小さな影を見送ったウィリアムとイーノックは、これから歩いていく獣道の方を振り返った。長い間、人が使っていないのか、ただでさえ細い獣道は左右から伸びた木の枝や草の葉が行く手を遮っていた。
「この道を行くんですかね…。」
「のようだな…。」
二の足を踏んでいるイーノックを置いて、ウィリアムは障害となる草木を払いのけながら、獣道に入っていった。
「行くしかないか…。」
寒さで白くなった溜め息を一つ吐いたイーノックは仕方なく、上官の後に続いた。
灰色の空の下、降ってきた白い雪が林道の左右に生い茂る針葉樹の葉の上に積もり、濃緑色の葉を白く染めていた。足を踏み出す度、地面を覆った白い雪に体重のかかった足が沈む。そんな獣道を自然の障害物をかき分けながら、二十分ほど歩いたところで、針葉樹に塞がれていた左右の視界が開け、道が広くなった。車が十分通れる広さの道は左右の木々の枝や草も刈られていて、人の手が入った後がある。
「近いですね…。」
その道を三十メートルほど歩いたところで、高さ二メートルほどの瓦礫作りの壁が二人の前で道を塞いでいた。壁には簡易的な扉がある。インターホンのようなものはない。
「入って良いんですかね…。」
イーノックが周囲を見回して迷っている間にウィリアムは扉を開いて、敷地の中へ入っていった。
「入りましたね…。」
イーノックも後に続く。壁の向こう側は木や草を切って手入れをされた庭のような空間が拡がり、その奥には決して大きくはないが、上品な西洋風の白い木造の建物が建っていた。
広さ四百平方メートルほどの庭と同様、人の手入れがしっかりとなされているように見える、三角形の屋根の家はしかし、人の気配は周囲を取り囲む針葉樹の森同様、全く感じられなかった。いくつかある窓にはカーテンがかけられていて、人の姿は確認できない。
「出かけているんですかね...。」
イーノックが呟いた。ウィリアムも同じ事を考えたが、ふと流れる風の音の中に、金属の軋むような音が小さくはあるが、時折混じって聞こえてくるのを彼は聞き逃さなかった。家の左側の方からだ。
「風の音…、ですかね?」
音のする方にウィリアムが歩き出すと、イーノックもその音に気が付いたのか、上官の後ろに続いた。
家の敷地の左側に向かうと、高さ二十メートルほどの大木が一本生えていた。その幹にはに子供が遊んだりするための足場や木作りの小屋が取り付けられている。その小屋の横側面には黄色いペンキで「レジーナの家」と書かれていた。小屋の上では木の葉が冬の風に揺れ、その向こうには、小さな白い雲をいくつかたたえた冬の青空が広がっていた。
「大尉、あの子を見てください。」
大木の幹に取り付けられた小屋を見つめていたウィリアムはイーノックに声をかけられて、部下の視線の先を向いた。目を向けた先には、これも木で作られたと思われる二人用のブランコがあり、そのうちの左の方に赤い髪飾りでブロンドの髪をまとめた少女が座って、見知らぬ二人の大人をじっと見つめていた。
さっきの音はこのブランコだったのだな...、と合点がいくと同時にウィリアムは驚いた。クレイグ・マッケンジーに子供がいるというような報告は資料の中にはなかった。
ともかく、目の前の少女がクレイグ・マッケンジーの居場所を知っている可能性は高いが、如何せん、子供に声をかけるなどということをここ数年、したことがなかったので、ウィリアムは逡巡したまま、一歩前に足を踏み出すことしか出来なかった。
ウィリアムの顔つきが険しかったためか、白色のワンピースを着た女の子は立ち上がるとブランコの後ろに隠れてしまった。
怖がらせるつもりはないと伝えたいが、どうしてよいかわからず、固まったままのウィリアムの横でイーノックが少女に対して静かに歩み始めた。少女は身体をびくりと震わせ、わずかに後ずさりしたが、イーノックは気にする素振りもなく、ブランコの前まで近づくとそっと両手を少女の前に差し出して見せた。
その手のひらには、先ほど獣道を通った時に取ってきたのか、小さな木の実がのっていた。しばらく、少女にその木の実を見せた後、イーノックが腕を振って、再び手のひらの上を少女に開いて見せると、そこにあったはずの木の実が無くなっていた。
初歩的な手品だな…、とウィリアムは思ったが、少女は驚いた顔をしていた。もう一度、腕を振って、手のひらを開くと再び木の実が現れる。まだ、警戒心がなくなったわけではないが、少女の顔には少し笑顔が浮かんでいた。
少女を安心させようとするイーノック、その後ろ姿を見てウィリアムは、かつてオヌの村でヴェスパ・アルバーンが同じようにして、ベトナム人の子供をあやしていたのを思い出した。
ウィリアムが遠い記憶に思いを馳せている間に、いくつかやって見せた手品が少女の警戒心が解いてきたところで、イーノックは最も大事なことを少女に聞いた。
「君のお父さんは、今どこにいるか分かるかい?」
イーノックが静かに聞くと、少女は栗色の丸い瞳をイーノックの肩越し、ウィリアムの方に向けた。イーノックとウィリアムがその視線の先を追って振り返るよりも先に、低く太い男の声が彼らの背後から聞こえてきた。
「うちの子に何か用か。」
いつの間にそんな近くまで来ていたのか、振り返ったウィリアムの背後五メートルほどの位置に、身長一七五センチほど、焦げ茶色のくせ毛に褐色の肌をした男が右手に伐採作業用のチェーンソー、左手には薪の束を脇に抱えて立っていた。
こちらを真正面から睨む顔を見て、ウィリアムはこの男こそがクレイグ・マッケンジーだと確信したが、その険しい表情から、あのCIAの男の言葉も同時に思い出していた。
あの男を説得するのは不可能だ…。
ウィリアムは自分達の自己紹介をしようとしたが、それより先にクレイグが厳しい口調で口を開いた。
「あんた達、軍の人間だろう?」
一瞬の沈黙、それが答えだった。
「あのCIAのやつにも言ったはずだ。もう俺達には関わらないでくれ!」
そう吐き捨て、「レジーナ!」と少女の名前を呼んだクレイグは背を向けて歩き出した。大人達の間に漂う軋轢の気配を察して、笑顔の消えた少女がウィリアムに警戒の目を向けながら、その後を追う。もう家の中に消えようとする二人を追って、後ろから追いかけたウィリアムは何を言えば良いか、考えるよりも先に男の背中に向かって叫んでいた。
「ハワードが死んだ!」
その言葉とともにクレイグの足が止まり、手をつないでいた少女がその顔を見上げた。一瞬の沈黙の後、こちらを振り向いたクレイグの顔に先程までの険しい表情はなかった。
「ハワード…。ハワード・レイエスか?」
目線を俯けたまま聞いたクレイグに、ウィリアムは静かにうなずいた。
数秒の沈黙がその場を支配し、どこか遠いところ見るような目をしていたクレイグは少女の頭を撫でながら、優しい口調で話しかけた。
「レジーナ、庭で遊んでいなさい。」
少女は何も言わず頷くと、ウィリアムを警戒する目で見ながら、その側を走り抜けて、先ほどの大木の元へ庭を走り去っていった。その姿を見送ると、クレイグは静かに口を開いた。
「上がって行け。ほんの少しだけなら話を聞いてやる。」
そう言い残して、クレイグ・マッケンジーは自分が立てた家の中へと消えていった。