第四章 二十二話 「理不尽な絶対正義」
文字数 5,643文字
両国の合意の下に封印されることが決定していたはずの"サブスタンスX"をソ連内部の「シンボル」の信奉達が技術を開発した科学者とともにアメリカの同胞に横流ししようとしている…。ソ連内部の諜報員から得たその情報をアメリカに渡そうと、リード特命大使に連絡を取ろうとしたゲネルバのソビエト工作員はその目的の直前で爆死し、その夜にはリード特命大使の私邸が武装勢力によって占拠され、大使は「ゴースト」が投入された救出作戦の中で暗殺された。リロイは何故、共産勢力側のゲリラではなく、アメリカに協力的な武装組織が大使私邸を襲撃したのか疑問に思っていたが、本国から送られてきた情報は恐ろしくも彼の疑問を解決するものだった。大使私邸襲撃後、支援を打ち切られたはずの「ゲネルバ革命軍」に対し、ダミー会社を通して多額の資金が振り込まれ、武器までもが秘密裏に密輸されていることが確認された、という報告資料の内容がリロイの推理を完成させた。
「最初から"シンボル"が全て仕組んだことだったのか…。」
今思えば、現地のCIA局長だったコーディですら一切情報の掴めていなかった突発的な大使私邸襲撃事件に対し、事件発生から数時間という早すぎるタイミングに、他の政府省庁や特殊部隊より先に「ゴースト」が救出作戦を行った時点で、「シンボル」の企みが裏に隠れていると気づくべきだったとリロイは反省した。
自分達の目的の障壁となる存在を第三者のテロ行為の犠牲に見せかけて抹消する…。どこかで聞いた話だ、とリロイは苦笑いし、独り言ちた。
「流石は"愛国者達の学級"の卒業生なだけはあるな…。」
リロイは報告資料を機密文書用の封筒に仕舞おうとしたが、その瞬間、けたたましい警報音がコントロールルームに鳴り響き、背後で有線通信機の子機を手に取ったコーディが怒鳴り声を上げた。
「何!何故、警備を緩めた!」
突然の警報とコーディの怒声に事態を一瞬にして悟ったリロイは部下に事情を問うよりも早く、傍らの作戦オペレーター達に対して、命令を飛ばした。
「即座に管理棟建物の火災用シャッターを全て封鎖!タイ空軍の本部にも警備員を管理棟に集中させるよう、急ぎ伝えろ!」
リロイの声は張り詰めていたが、オペレーター達は困惑した表情で固まったままだった。無理もない。今、リロイが彼らに拘束させようとしているのは、つい数時間前まで彼らの指揮官だった男なのだ。当惑するのは当然だろう。しかし、ここは軍隊。軍人ならば、如何なる時も上官の指示に従わねばならないという強い信念を吐き出したリロイは先程よりも更に大きな声を張り上げて命令した。
「早くしろ!奴を逃せば、第三次世界大戦が起こるぞ!」
メイナードの独白を聞いていないオペレーター達にその言葉の真意がどの程度伝わったか、リロイには分からなかったが、それでも鬼気迫るリロイの表情と気迫は彼らを命令に従わせるには十分であったようだった。オペレーター達がリロイの与えた命令に従って各所への警戒を要請する中、傍らの通信機に手を伸ばしたリロイは震える手でダイヤルを指定し、無線を飛ばした。無線の相手は「ゴースト」を監視している「デルタ」の部隊指揮官、ジェイラス・ダーク大尉だ。
「こちら、ダークです。」
無線の向こうから声が聞こえると同時にリロイは矢継ぎ早に命令を伝えた。
「大尉。コールサイン・レッドだ。」
突然、突きつけられた緊急事態の意の暗号に一瞬だけ、戸惑いの気配を無線の向こうに感じさせたダーク大尉だったが、さすがは連戦の指揮官というだけあって、彼は何も聞き返すことはなく、
「了解しました…。」
とだけ短く返答すると回線を閉じた。世界最強の特殊部隊にメイナード狩りを命じ終え、無線機を手元に置いたリロイは作戦司令室正面の電子モニターを睨んだ。先程まで「ゴースト」のブラボー分隊が取り残されたカンボジア/ベトナム国境区域の拡大地図が電子イルミネーションの集合体で表示されていた電子モニターには、メイナードが監禁されていた管理棟建物の各階のフロア見取り図が電子図で描かれ、その図の上には黃色の斜線ラインでメイナードが隠れている可能性のあるエリアが示され、さらに電子地図上に輝く三つの赤色光点が脱走者によって殺害された犠牲者達の位置を知らせていた。
「コーディ、我々も行くぞ。」
本来は作戦司令室への武器は持ち込み禁止のため、本体と分離して携帯していた七発弾倉をコルト・コンバットコマンダーのグリップ内部に装填したリロイはスチール製のスライドを引いて薬室に初弾を装填すると、背後の部下を振り返って作戦指揮室の出口へと向かった。
「C区エリアの独房より脱走者!繰り返す!C区エリアの独房より脱走者!付近の隊員は即座に警戒体勢、標的の確保に努めよ!」
耳に不快な警告音とともに脱走者の捕縛命令がスピーカーから施設全体に響いた時、メイナードは独房前の廊下から登った天井の換気道を這っており、独房のあった管理棟区画に隣接するB区画に移動していたところであった。
もう遅い…。
事態を遅れて察知した旧友を心中に嘲笑いながら、事前に頭の中に入れていた建物のフロア地図を基に自分の位置がそろそろ出口に近いことを認識したメイナードは換気口から真下の廊下へと滑り出た。音もなく、ぬるりとした軟体動物のような動きで天井から真下の廊下に滑り降りたメイナードは出口の方を見たが、すでに火災防止用の厚い隔壁が閉じられており、その先には逃げられないよう手が打たれていた。
甘く見過ぎたかな…。
苦笑いとともにメイナードが己の過信を反省し、代理策に移ろうとしたところで、廊下の反対側の角から誰かが走ってくる足跡が聞こえ、メイナードは廊下の脇に積み上げられた資材箱の陰に身を隠した。次の瞬間、大きくなった足音とともに完全装備のデルタ隊員が二人、メイナードの潜む資材の脇を走り去って防火扉の前で立ち止まった。
まさか彼らまで投入してくるとはな…。
関心とともに物陰から見を出したメイナードは背後に敵の気配がないことを感覚で確かめながら、自分に背を向けている二人のデルタ隊員に肉食動物のような驚異的なスピードで接近した。
「こちら、Bエリア三番出口。敵の姿はないが、天井の換気口の網戸が外れている。敵は換気口を使って移動している可能性があり、警戒要する。」
先頭の隊員が隊長に無線連絡をする中、後ろで警戒についていたデルタ隊員は脱走者がCIA職員より銃を奪ったとの情報から天井の換気道にMP5を向けて頭上を警戒していたが、彼の探している敵は頭上ではなく、背後にいた。一瞬、背後に走った不穏な気配に後ろを振り返ったデルタ隊員だったが、時すでに遅く、振り返った瞬間には彼の喉元にはメイナードの拳が突き刺さっていた。超人的な破壊力の打撃で喉仏が潰れるだけでなく、頚椎までも叩き折られたデルタ隊員が死体となって倒れ込む脇を、すり抜けるようにして駆けたメイナードはもう一人の隊員に飛びかかった。自分に向けられたMP5の銃口を左手で退けると同時に、右手の人差し指と中指を隊員の両目に突き刺したメイナードは狭い廊下に隊員の悲鳴とともにMP5が九ミリ弾を散らすフルオートの銃声が響き渡った次の瞬間、デルタ隊員の後頭部を左手で掴むと隊員の眼窩に突き刺した二本の指を脳幹にまでめり込ませた。数秒間、頭蓋の中を撹拌し、隊員の死を確信したところで右指をデルタ隊員の眼窩から引き抜いたメイナードは脳髄と血で赤く染まった右手を払うと、無駄一つない動きで足元に転がる二人の死体からMP5と弾倉を奪った。続いてボディアーマー付きの戦闘服も接収したところで、隊員の死体の腰に個人携帯用グレネードランチャーのH&K HK69A1がスリングで括り付けられているのに気付いたメイナードは背後で彼の逃走を妨害している防火シャッターを睨んで笑みを浮かべた。火災と煙を遮るため、ある程度の厚さの金属で造られていると思われる防火シャッターだが、拳銃弾程度は防げても四十ミリ擲弾の爆発には耐えられないだろうと推測したメイナードはデルタ隊員の死体が身につけていたベルトリンクポーチを奪うとグレネード弾を一発取り出した。グレネード弾の安全装置の限界は二十メートル、廊下を角まで下がっても防火扉からは十五メートルほどしか離れていないため、信管を一度取り外して安全装置を取り出す必要があった。
頭上で耳障りな警報音が響き渡る中、メイナードの動きには全く無駄が無かった。彼の胸中にも緊張や焦りはあったが、長年の工作員としての訓練と経験が彼の心と体の反応を分離しているのだった。数十秒の内に安全装置を外し、信管をはめ込み直したメイナードは四十ミリ弾をHK69A1の中折式銃身の中に滑り込ませると、爆発の破片と衝撃波から自分を守るための物陰に身を隠すと同時にラダーサイトを折り畳んだままのグレネードランチャーを十メートルほど離れた防火扉に向かって撃ち込もうとしたが、その瞬間、背後に微かに走った殺意に後ろを振り返った。
振り返りながら撃つ、というよりも振り返るより先にグレネードランチャーを握っていない左手だけで握ったMP5を背後に向けて正確に発砲したメイナードに、死角となるはずの背面からIMI ガリルで脱走者を狙い撃とうとしていたジェイラス・ダーク大尉は舌打ちとともに飛び退くようにして廊下の角の陰へと姿を隠した。
「やるじゃないか、ダーク大尉。さすがは合衆国最強の特殊部隊を率いるだけのことはあるな。」
廊下の角に身を隠す敵将に向かって、MP5A3短機関銃を構えたままで褒め言葉を送ったメイナードに帰ってきた声はダークのものではなく、リロイ・ボーン・カーヴァーのものだった。
「メイナード、やはり私は君の考えには同調できない。」
「くそ!奴は特殊部隊上がりか何かなのか!」
完璧だったはずの奇襲を察知され、反撃されたことに対し、悪態を吐くダーク大尉の肩を優しく押さえたリロイは廊下の角ぎりぎりに身を隠す彼の横に並ぶと、決意を部下に伝えた。
「私が奴に隙を作る。」
「いや、しかし相手はグレネードランチャーも持っています…。」
止めようとするダークの声を無視し、リロイはコルト・コンバットコマンダーのグリップを握る両手に力を込めて壁の向こう側にいる旧友に声をかけた。
「メイナード、やはり私は君の考えには同調できない。」
先程まで戦場だった廊下の雰囲気が変わり、流れる沈黙に対してリロイは一泊の間を置いて続けた。
「数十億人の命を殺して達成されるような悲劇的な正義よりも、私は人々や自然が調和して生きていく道を探していきたい…!」
大きく透き通った声だったが、緊張で微かに震えたのはメイナードにもはっきりと分かっただろうとリロイは思った。今、彼の背後ではダークの他に三人のデルタ隊員とコーディを含む数人のCIAエージェント達が各々の武器を構えて待機しているが、その援護をもってしても彼が対峙している相手は強大な存在だった。リロイが手の中のコンバットコマンダーを握る強さを更に強め、引き金に指をかけた瞬間、彼の旧友は返答の言葉を返した。
「リロイ君…、その考えは甘いんだよ…。」
警報音以外、一切の音が鳴らない沈黙の中で返されたメイナードの言葉にリロイは心臓を射抜かれたように全身が竦むのを感じた。その恐怖はメイナード自身というよりも、メイナードがその中に孕んでいる狂気とも呼ぶべき絶対的な正義に対するものだった。
「全ての人類が幸せに生きていく…。そのためにはこの地球という星は余りに狭過ぎるんだ…。だから誰が生き残るべきか試練で決めねば…。」
底暗い声の響きにこの世界の現実と理不尽な摂理が裏打ちさせられた強い信念と正義があることを感じさせられたリロイはメイナードに気圧されそうになりながらも、湧き上がってくる怒りの感情をもって抵抗した。
確かにメイナードの言っている事は正しい…。このまま人類が無策な繁栄を続ければ、人間同士の争いは続き、自然環境は破壊され続け、最後には地球が文明の負担に耐えきれなくなり崩壊するだろう…。だが、しかし…、強いということが、戦いで生き残るということだけが本当に生きるべき理由になるのか?弱き物は淘汰されるべき…、そんな原始的な原理がここまで文明や理性を発達させてきた人類に与えられた最後の運命なのか…?それならば、自分達は一体、何のために正義というものを信じて生きるのか…?
絶対的な摂理を押し付けられ、その理不尽さに絶望するしか無かったリロイの感情はやがて一人の人間としての怒りの感情に置き換わり、彼は自らの危険を省みる事も忘れて廊下の角から身を出していた。
「試練だろうと何だろうと貴様にそれを決める権利はない!」
ダークの静止も振り切り、壁から体を出すと同時にコンバットコマンダーを構えたリロイに襲いかかってきたのは銃弾の嵐ではなく、爆発の衝撃波だった。熱風に押されて後ろに転倒したリロイはふらつく視界の中で正面に向かって小型拳銃を発砲しようしたが、それよりも先に首筋を引っ張ったダークの声がリロイの体を壁の陰へと引き込んだ。次の瞬間、メイナードのMP5から放たれた九ミリ・パラベラム弾の嵐が二人の目の前を吹き荒れ、先程までリロイが倒れていた床に弾痕の穴が次々と開いた。目の前に迫っていた死の恐怖よりも絶対的で強大な正義から逃れることができたことで放心状態となっているリロイの後ろではジェイラス・ダーク大尉が無線の回線を開いて部下達に命令を発する怒声を上げていた。
「脱走者が外に出たぞ!部隊と警備を回せ!早くしろ!」