第四章 二十七話 「正義を信じて」
文字数 4,293文字
分隊の指揮官としてメイナードの近くで数年の月日を過ごし、彼の命じる任務を忠実に遂行してきたからこそ、メイナードが沈黙に包まれた内面に宿している正義が殺戮の狂気だと感じ取っていたウィリアムにはイーノックが語る言葉が出任せでないことは感覚的に理解できた。自分と同じように戦場にある正義、全ての人間を救うことのできる普遍の正義を求めていた男、メイナード。だが、彼の信じている正義が自分の信じる正義とは全く正反対のものだと気づいた時、その徹底的なまでに残虐で救いがない正義に強い嫌悪を感じていながら、ウィリアムはそれを拒否することができなかった。なぜなら、自分自身の信じる正義に対しても疑念があったからだ。
人種や国籍、文化に関係なく、全ての人を救い、導くことができる正義を見つけたい…。十七歳の時、青春を捧げた黒人公民権運動の中でキング牧師の言葉に触発され、"彼"とともに必ず見つけ出そうと誓った正義…。全ての人のためであるようにと言いながらも、空想的で独善的、そして稚拙な正義のためにウィリアムは人生で彼のことを一番想い、また彼も一番想っていた最愛の友をチューチリンの村でその手にかけることとなった…。そこ時に捨て去り、忘れ去ろうとしていた正義がイーノックの「もう一度、過去の自分と向き合って欲しい。」という言葉によって再び蘇り、永遠に解決されることのない自身の正義に対する問いとぶつかりあって、頭の中で反芻し始めたウィリアムは心だけでなく、掩体壕の入り口で突撃の体勢を整えていた身体までもが震えているのに気がついて愕然とした。
俺は自分の正義を信じるのが怖いのか…。
己の正義が生み出す誤ちを恐れるが故に他人の正義に身を任せ、"亡霊"としてメイナードの命令のままに戦い続けてきた数年間の己の在り方を思い返したウィリアムは身を任す他人の正義など既に存在しなくなった孤立無援の敵地の中で避けられない選択に自分が迫られていることに悟った。
確かにイーノックの言葉は正しい。"サブスタンスX"とユーリの頭の中にあるその設計図は世界を滅ぼすかもしれない…。だが、もしユーリを殺せば、世界は救われるのか?イアンの犠牲は意味がなくなるのか?仲間を逃がすために単身で敵陣を突撃したクレイグの覚悟は無かったことになるのか?
不意にウィリアムの頭の中にカナダで出会った少女の姿が思い浮かび、クレイグが少女と別れ際に交わした言葉が脳裏に蘇った。
「大丈夫だ。お父さんにはまたすぐ会える。」
その約束を彼は捨てた…。部隊を守るために最愛の人との約束を犠牲にしたのだ。そんなクレイグの想いを踏みにじることだけは絶対にしない…!
世界を左右する大義や人類の未来を決める危機などというものよりも分隊長として、部下達の想いを守る正義を優先することを決断したウィリアムに再び、あの声が問いかけた。
「それがお前の信じる正義なのか?」
その声と同時に、もうここには無いもの、ここには無い時間…、記憶が創り出す過去の残り香に一瞬、意識が引き込まれるのを感じたウィリアムは地面に降ろした二本の足を踏ん張って、トラウマに飲み込まれていくのを何とか堪えた。
ハワード、クレイグ、イアン…。数多くの人間が自分のために犠牲になった…。だからこそ、残された自分は彼らが貫けなかった"自分自身の正義"を完遂しなければならない…!
仲間を失った心の痛みを昇華させるのかのように唇を噛み締めた痛みで、フラッシュバックの幻想を霧散させたウィリアムは次の瞬間には、背後につく南ベトナム軍兵士達の制止を振り切って、掩体壕の中へと足を踏み入れていた。
「大尉…!待ってください!奴は武器を…!」
背後から虚ろな表情で近づいてきたウィリアムに気づいたリーが止めようとしたが、ウィリアムの意識に部下の制止の声は全く聞こえていなかった。
「大尉…。」
投降を呼びかける言葉も何も発さず、ただ無言でゆっくりと歩み寄ってくるウィリアムの姿と正面から対面したイーノックは一瞬だけ狼狽えたような表情を見せたが、すぐに先程までの厳しい表情を取り戻すと、盾にしたユーリ・ホフマンの頭に構えたブローニングHPの銃口を突き付けて怒鳴った。
「大尉、来ないでください!それ以上、近づいたら…!」
だが、その声すらもウィリアムの意識には全く入っていなかった。彼にとって意識の中にあるのはただ己の正義との戦いであった。
かつて、彼は己の正義を貫くために最愛の友の正義とぶつかり合い、その結果、友の命まで失った。二度とは戻れぬ一九六七年の夏のチューチリンでの出来事…。それ以来、自身を苦しめ続けた永遠の問いに一つの声を出したウィリアムは今度もまた自身の正義を貫くために仲間の正義と対決しようとしているのだった。
「ウィリアム、それがお前の見つけた答えなのか…?」
彼の目の前に映っているのはイーノックではなく、そう問いかける"彼"の姿だった。あの日のチューチリンの村での時と一緒、濃緑色のOG-107戦闘服に身を包み、M16の銃口を向けている"彼"が問うている、八年前と同じ問いを…。
いや、問うているのは自分自身なのかもしれない…、今再び自分の正義を信じようとしているその行為をどこかで恐れている自分自身が…。だが、ウィリアムに一歩一歩確かに踏み出し続ける足を止めるつもりは無かった。リーとアーヴィングの脇を通り過ぎ、アールの横も静かに歩み去り、ウィリアムは自身に銃口を向ける部下に歩み寄り続けた。
刹那、薄暗い掩体壕が閃光で明黄色に染まり、轟いた銃声とともに放たれた九ミリ・パラベラム弾がウィリアムの頬を擦過し、銃弾に表皮を擦り剝かれたウィリアムの横顔を一筋の血液がまるでチューチリンで流した涙のように静かに流れた。
「やりやがったな!お前!」
「警告を聞かないからだ!」
分隊長に向けて発砲したことに激昂したリーに対し、イーノックが怒鳴り返した。
「大尉…。」
一発の銃撃とともに立ち止まったウィリアムの背中を見つめたアールは呻くように呼びかけたが、すぐ目の前にある分隊長の背中が言葉を返すことは無かった。代わりにウィリアムが部下達に意思を示したのは言葉ではなく、踏み出した足によってだった。
「もう止めろ!ウィリアム・R・カークス!戦場にあんたの探している答えなんて無いんだ!」
怒鳴り声というよりも何処か所在ないような叫び声を上げたイーノックのブローニングHPが再び、マズルフラッシュの閃光を発し、撃ち出された銃弾がウィリアムの足元で弾けた。跳弾が発した火花が爆ぜるとともに再び足を止めたウィリアムは数秒ほど沈黙した後、壕の中にいる部下達に辛うじて聞きとれるような掠れた声を発した。
「もう良いんだ…。」
その声と同時に顔を上げて目の前の部下の顔を見つめたウィリアムの双眸の力強さに一瞬たじろいだイーノックはユーリの頭に突き付けていたブローニングHPの銃口を目の前の上官の額に向けて構えた。
「部下の犠牲が何だろうと…、あんたとメイナード大佐の独善的な正義のために、この世界は壊させない…!」
はっきりと言い切ったイーノックの言葉には単にリロイに入れ知恵を吹き込まれた以上の思いが籠もっていた。
自分とは関係ないとだと、そう思って自分のことにしか目を向けず、ろくに話を聞こうとしなった自分達、家族の無関心のせいで兄は死んだ…。あの時、もっと話を聞いてやれていれば、兄は死なずに済んだかもしれない…。だから…、だからこそ、今度は…。兄は救えなかったが、今度こそは自分自身が身をもって正義を貫き、兄の守った世界とそこに住む人々の平穏を絶対に守る…。例え最も信頼され、信頼していた人達を裏切ってでも…。
「もう良いんだ…。」
部下の胸中を知っているかのように言葉をかけたウィリアムの目に憤怒や敵意は無かった。ただ、己の信じる正義を貫くという静かで強い決意が、例え過去と同じ間違いを犯し、苦しみに満ちた人生を送るとしても、自分の求めてきた正義は間違えていないと信じる覚悟が銃弾や砲弾よりも強い力となって、イーノックの胸を貫いた。
「何故…、なんだ…。」
自分の信じる正義は間違えていなかったはずなのに、今度こそは消えゆくものを救いたいと思い、信じた正義なのに…。
目の前に対立する、異なる正義に押し潰された心とともに震えるイーノックの手には彼の正義を保つために構えられた自動拳銃引き金は重過ぎた…。
ゆっくりと差し出されたウィリアムの手に最早これ以上、己の正義を貫く精神を保つ事ができなかったイーノックは拘束していたユーリの体をゆっくりと離すとともに、その場に座り込んだ。
「何故だ…!今度こそは守り抜くと誓ったのに…!」
緊張から解き放たれ、覚束ない足取りでイーノックから解放されたユーリが背後でアールに保護される中、座り込んだイーノックに歩み寄ったウィリアムは己の信じる正義を打ち破られ、挫折した青年の肩にゆっくりと手を置いた。
「もう、良いんだ…。正義のために、苦しまなくても…。」
その言葉によって、イーノックは己の心を蝕んでいた自責の念から解き放たれ、ウィリアムは自身の心が拒絶していた正義を許したのだった。
ウィリアムにかけられた声を兄のもののように感じ、地面に顔をつけて肩を震わせ泣くイーノックの背中を見つめて、ウィリアムは記憶の中で揺らぐ"彼"の面影に静かに別れを告げた。
「親友よ、さらばだ…。君の正義とともに眠ってくれ…。」
俺は俺の信じる正義とともに生きていく…。
青年のむせび泣く声が先程まで緊張に包まれていた掩体壕に響き渡り、武器を下ろしたアール、リー、アーヴィングの三人が己の正義をぶつけ合った二人の男の姿を見つめて無言のまま佇む中、静寂を破る知らせは突然にやってきた。
「ウィリアム隊長!すぐ来てください!」
修羅場が過ぎ去った掩体壕に駆け込んできた南ベトナム軍兵士の(訛った英語の一言に壕の中に居た全員が振り返り、再び重い緊張感が張り詰めた。
「何だ!今こっちはそれどころじゃ…。」
緊張の間に溜まっていたストレスを怒りに変えた リーが南ベトナム軍兵士に向かって怒鳴ったが、若いARVN兵士の腕に衛生兵の腕章が巻かれているのを目にしたウィリアムはベトナム人兵士がリーに返答するよりも先にテントから飛び出して、ジョシュアが手当てされている医療テントの方へと走った。