第三章 二十二話 「見えない敵」
文字数 4,260文字
本隊とともに後方に控える小隊長からの命令が先遣偵察班に伝えられ、命令を与えられた四班の班長が了解の旨を返して、周りの部下達とともに捜索を再び開始し始めた時、身を低くし、茂みの一部になるかのようにして地面を這ったクレイグ・マッケンジーは、新しく下った命令に従い、右寄りに展開した四班の民族戦線兵士の内、他の四人と距離が大きく空いている右端の兵士に音もなく接近していた。標的の兵士は勿論のこと、左手に展開する他の兵士達にも気づかれぬよう足音を立てず、足元のトラップにも注意して、慎重に近づく。まるで蛇が地面の中を這うように、茂みの中を静かに、しかし俊敏に動いたクレイグはターゲットにしている兵士の数メートル後ろまで近づき、他の兵士達が気づいていないのを確認して、背中を向けている敵に背後から飛付こうとしたが、その瞬間、前進を止め、唐突に背後を振り返った民族戦線兵士の動きを見て、茂みの中に身を伏せた。
気づかれたか…。
クレイグの全身に緊張が走り、体が一瞬強ばったが、本能的に狩人の本能が働き、彼は瞬時に気配を消した。目の前の兵士は地面に身を伏せているクレイグの方は向いていないが、同じ方向を見ている。もし、目線を下げられればクレイグの存在にも気づいてしまうだろう。
どうする…?再び、敵が動き出すまで待つか、それとも今すぐ仕掛けるか…?
だが、飛びかかって仕留めるにはクレイグと標的の兵士との間には、まだ距離が空きすぎていた。目の前の兵士を仕留められても、悲鳴をあげる時間は与えてしまうことになり、結局は他の兵士にも気づかれてしまう…。だから、まだ動かない方が良い…。
そう判断したクレイグは結局、体を動かさなかった。泥を塗りたくった全身を地面に沈めるようにして伏せ、片手に構えたマークⅡ・ガーバーナイフを握りしめて、獰猛な爬虫類の捕食者の如く、茂みの中から標的の姿を見つめて、息を殺していた。
だが、兵士が振り返ったのはクレイグの気配を感じたからではなかった。彼が後ろを振り返り、見つめていたのはジャングルの中を飛ぶ一羽のミカドアゲハだった。風にのって優雅に飛んできて、自分の横を通り過ぎた蝶を追い、再び民族戦線兵士が歩き始めると、その後を追って、クレイグも再び追跡を開始した。
ふわふわと風にのって、木漏れ日が漏れるジャングルの中を舞い上がっていくアゲハ蝶を見上げて、背後の刺客には全く気がついていない兵士のすぐ真後ろについたクレイグは、ゆっくりと姿勢を起こして茂みの中から頭を出すと、左側を見て他の兵士達の様子を確認したが、ちょうど大きな熱帯樹が間に立ち塞がっているおかげで彼らの意識はクレイグの方には向いていないようだった。それを確認した次の瞬間、腰に力を入れて体を起こし、声を出せないように左手を目の前の兵士の首に巻き付けて、右手に握ったナイフをその頸動脈に突き刺そうとしたクレイグだったが、彼の左手が兵士の肩の上を通りすぎようとした瞬間、ガチャリ、という金属音が彼の足元でして、クレイグと今まさに彼の餌食になろうとしていた民族戦線兵士は同時に固まり、動きを止めた。
それは本の一瞬の出来事であったが、当の二人にとっては、もっと長い時間に思えた。クレイグは理由の分からないものの、自分の存在が察知されたと思い、横目で左手の敵の姿を確認して、すぐに右に飛び退けるように体の姿勢を整え、民族戦線兵士の方は突然何かが絡み付いた足首を恐る恐る見た。だが、兵士が自分の足首に絡まったものの正体を認識するよりも前に、彼の足首に食いついた金属ワイヤーが兵士の体を引きずり始め、甲高い悲鳴がジャングルに響き渡るとともに、周囲に展開していた民族戦線兵士、四人の注意がクレイグに集中した。もし、クレイグがつい一秒前に回避の体勢を整えていなかったら、彼は四人の敵兵から同時に放たれた銃弾に引き裂かれて、肉ミンチになっていただろう…。標的の兵士がワイヤー仕掛けに引きずられて行くのとは逆方向に走り出したクレイグの後を四人の掃射した銃弾の嵐が追う。黒色土の上をワイヤーに引きずられていった兵士は十メートルほど地面の上を滑った後、ワイヤーが巻き付けられていた高木に足首から逆さまに引き上げられると、そのまま木の幹に取り付けられていた二十本以上のパンジ・スティックに背中から全身を突き刺され、胴体以外にも咽頭や頭蓋にも研がれた小さな竹槍が貫通したことで即死した。
大量の銃声とともに追いかけてくる銃弾を紙一重でかわしつつ、身近な木の裏に隠れたクレイグは、その根本に草木をかけて隠していたM26破片手榴弾とM1ガーランド半自動小銃を手に取り、ボルトをコッキングして初弾を送り込んだ半自動小銃を構えて、木の陰から身を出した。次の瞬間、M1ガーランドの太い銃声とともに、クレイグの隠れた木から二十メートルの位置まで走って来ていた民族戦線兵士が手にしたPPSh-41を撃ち散らしながら、首から血を吹き出し、後頭部を地面に引きずられるようにして後ろ向きに倒れた。
ナイフしか持っていないと思っていた敵が突然、ライフルを取り出してきて虚をつかれたのか、攻勢が弱まった他の三人の民族戦線兵士達にも牽制の単発射撃を放ったクレイグは敵の動きを視界の隅に捉えながら、次のトラップポイントへと走った。
「四班が現在、敵と交戦中!各班は至急応援に向かえ!」
小隊長の指令が無線から流れる中、四班から一番近い位置に展開していた三班はすでに、四班の怒声と銃声を聞き付け、交戦地点に向かっていた。だが、仲間の応援に向かうのに必死になり過ぎて、敵の攻撃に備えて散開することや足元のトラップに注意を配るのを忘れていたことが彼らにとって命取りになった。班長とその他、二人の民族戦線兵士は接近して横並びで走っているところを、仕掛けられたパンジ・ピット式の落とし穴に引っ掛かっかり、一瞬体の浮遊感を感じた直後、穴の底に垂直に埋め込まれた、六〇センチほどの長さの竹槍に体を何ヵ所も串刺しにされ、泥や動物の糞が溜まった穴の中で息耐えた。
上官が目の前で死に、残された三班の二人の民族戦線兵士は、どうしたら良いかわからぬまま立ち止まっているところを後ろからやって来た二班の五人に発見され、彼らと合流して行動することとなった。
「気を付けろ!地面はトラップだらけだぞ!」
三班の悲劇を目にした二班の班長からの無線を聞く余裕もなく、四班の兵士達は手にした小銃を撃ち散らしながら、信じられないような速度でジャングルを逃げ回る死神を追い回していた。
敵との距離が三十メートルのところで、弾切れになったM1ガーランドを捨てたクレイグは戦闘服のポーチにつけていたM26破片手榴弾を手に取ると、安全ピンを引き抜き、体を後ろに捻りながら、レモンのような形状の破片手榴弾を空高く放り投げた。
「グレネードだ!」
班長が叫ぶとともに他の二人の民族戦線兵士達も身を伏せて、茂みの中に姿を隠した。次の瞬間、ジャングルの茂みの十メートルほど上で爆発の衝撃波が生じて、地面から土煙が立ち、水気を帯びた草木からは水滴が飛び散った。一番、手榴弾の爆発に近かった中年の兵士が悲鳴をあげ、それを聞いた民族戦線の班長はその元へと駆けつけ、部下の傷を見た。鋼製ワイヤの破片が右の太腿に刺さって出血しているが軽傷だった。応急処置として、班長が止血を始めた瞬間、横から彼の鼓膜を震わせてきた銃声に、班長と負傷した中年の兵士は首を向けて、銃声のした方を睨んだ。
「死ねぇ!白人のブタどもがぁッ!」
班員の中で最も若い十六歳の兵士が、錯乱した様子で怒声を上げながら、逃げる敵に向かってSKSカービンを乱射して走っていくのが爆発の硝煙の向こうに、二人の民族戦線兵士にも見えた。
「一人だけで深追いしすぎるな!グエン!」
しかし、叫んだ班長の声も聞こえず、仲間の敵討ちに必死になった若い兵士には三十メートルほど離れた先を走る敵の背中を撃ち倒すことしか意識になかった。そして最後の瞬間、自分が死んだことも彼の意識には上らなかっただろう…。
突如、けたたましくジャングルの中に響いていたカービンの短連射音を破って、爆音が轟き、若い兵士のいた場所の地面がめくれ上がると、赤い血に染まった土と肉片がM14対人地雷の爆発に吹き上げられて、二〇メートルほど上方に飛び散った。突然の爆発に驚き、部下の手当ても途中で止めてしまった班長だったが、すぐに意識を現実に引き戻し、応急処置の残りを手早く終わらせると、立ち上がって若い兵士の姿を探した。
「グエン!大丈夫か!負傷してるのか!」
十五メートルほど頭上の木の枝に引っ掛かった肉片以外、もうこの地球上に若い部下が存在しないことは漠然と分かっていたが、それでも班長は爆発の硝煙の中、若い部下の姿を探そうと必死に努力した。
まだ十代の彼には遠い北の土地に残してきた家族がいる。彼が死んでしまったなら、彼の家族はどうやって生きていくのか…、だからこそ自分は絶対に生きた部下の姿を見つけ出さなければならない。
地雷が爆発した辺りに、よろよろと動き出した班長は意地でも部下の姿を見つけてやろうとしたが、若者の姿はどこにもない。そして、不思議なことに、つい先程まで五十メートルそこそこの位置にいたはずの敵兵士も姿を完全に消していた。
「班長、やつは死んだんです…。このままだと、我々も殺られます。ここは一旦退いて本隊と合流しま…。」
背後から負傷した右足を引きずりながら、班長に歩み寄ってきた中年兵士の言葉はそこで途切れた。狙撃弾に吹き散らされた部下の脳髄が顔に飛び散ると同時に、ハッ、として、一瞬の内に兵士としての正気を取り戻し、応戦の姿勢を整えた班長だったが、その瞬間には一二〇メートル離れた距離から撃ち込まれた七.五ミリ弾が彼の頭の上半分を吹き飛ばしていた。
民族戦線兵士達が地雷の爆発に気を取られている内に、放棄された地下トンネルを使うことで地上に姿を見せることなく、一〇〇メートル余り離れた木の陰まで移動していたクレイグは、ライフルの銃身を根子の上に置くために身を伏せていた木の陰から立ち上がり、先程狙撃に使用したMAS-36ボルトアクション式ライフルを足元に投げ捨てると、残りの敵の行動分析とこれからの戦略の建て直しのために再びジャングルの茂みの中を、姿勢を低くして走り始めた。