第三章 二十八話 「戦士の最期」
文字数 4,092文字
淡黄色の煙幕が狭いトンネルの中を満たしていく中、XM28ガス・マスクを被った黒い影がその煙幕の中に飛び込み、催涙作用を含んだ有毒ガスの中で咽び喘ぐことしかできない民族戦線兵士達の首元に次々とバルカン・ダイバーナイフを突き刺していく。その動きに殺人をためらう躊躇などというものは全く無く、ただ肉食動物が獲物を狩るのと同じ無駄のない動きで、黒い殺人者となったクレイグは視界に入る全ての生命を奪いながら、有毒ガスの煙の中を駆け抜けると、次の標的に向かってトンネルの中を走った。
「たっ、助けてくれ!」
悲鳴と銃声が聞こえてくるトンネルの入り口で、内部に入ることを躊躇っていた民族戦線兵士達の目の前に、彼らの仲間が血まみれになった上半身を這い出して現れた。
「しっかりしろ!大丈夫だぞ!」
怖気づいていた兵士の一人が瀕死の仲間に近づき、その手を取ろうとしたが、彼が仲間の手を握るよりも先に、血まみれの民族戦線兵士は地面の下に隠れた下半身を後ろから引っ張られ、甲高い悲鳴をあげながらトンネルの闇の中へと凄まじい勢いで引きずり込まれていった。
まるで熊か虎か…、とても人間とは思えない力で地中に引きずられていった仲間の姿に、唖然とすることしかできなかった民族戦線兵士達の目の前で小さな地下トンネルの入り口の穴から一発の銃声が閃光とともに轟き、
「この野郎ぉっ!!」
と叫んだ一人に続いて、穴の周囲に集まっていた数人の民族戦線兵士達はトンネルの入り口に向かって、手にしたAK-47を一斉に掃射した。二〇〇発近い銃弾が撃ち込まれ、トンネルの入り口が激しく弾けた後、民族戦線兵士達が沈黙した暗闇の中を見つめて、恐る恐るその中を確かめようとしたその瞬間、今度は彼らの二〇メートルほど脇で地面を巻き上げる爆発が起き、別の民族戦線兵士達が分隊ごと吹き飛んだ。その爆発を合図に、悲鳴と怒号とともに多数の銃声が弾け、地上に展開していた全ての民族戦線兵士達が地面に向かって、それぞれの銃を一斉に発砲し、何百発もの銃弾が湿ったジャングルの地面を周囲に撒き散らした。しかし、撃ち込まれた多数の銃撃も虚しく、また別の位置で爆発が起き、武器を輸送しようとしていた小型車両が乗っていた兵士もろとも爆散して、ロケットランチャーや手榴弾など搭載していた爆発物を誘爆させながら、ジャングルの中に一際大きな爆発の炎を立ち上げた。
「何人やられてるんだ!小隊長はどうした!何!死んだ?」
新しい指揮官として増援に送られた民族戦線の中尉が無線機で地下の仲間と連絡をする間も、彼の背後ではトンネルの銃眼から狙撃してくる暗殺者の銃声とそれに続く悲鳴と怒号がジャングルに響き続けていた。
「何としてでも殺せ!増援はいくらでも送る!やつを捕らえて、生きたまま生皮を剥いでやれ!」
急げ!突入しろ!、という指揮官の怒声とともに、五十人以上の民族戦線兵士達があちこちの入り口から続々と地下トンネルの中へと突撃して行った。
両親に愛されなかった少年時代、一人捨てられた雪山での狼との生活、そして教会での平和な日々からベトナムの戦場へ…、戦争での心の傷を癒やすべく外界との繋がりを絶った山での、娘として引き取った少女と過ごした静かな数年の日々…、そして突然現れた訪問者達とともに終わりを告げた平穏、顔だけが思い出せない最後に見た娘の姿…、今までの記憶の日々が頭の中で走馬灯のように蘇る中、正気を失ったクレイグは狂気の絶叫をあげながら、地下トンネルの中を走り回り、自分の感覚が察知した気配に向かってAKMSを乱射し、生の気配が消えるまで手にしたナイフを突き刺した。怒号と悲鳴、銃声と爆発が地下トンネルにこだまし、人の血と肉が飛び散って、暗いトンネルの中を走る狂気の塊に襲われた民族戦線兵士達はなす術なく、その暴走に飲み込まれて次々と命を失っていった。
「なぜだ!何故、やつは倒れん!」
そこまで叫んだところで、頭に銃弾が突き刺さって地面に倒れた民族戦線の中尉の死体を飛び超え、狂気の化身となったクレイグがAKを乱射しながら走り抜ける。その後を何十人もの民族戦線兵士達が手にしたライフルを乱射しながら追跡した。体に十発以上の銃弾を受けても走り続けるクレイグには、すでに痛みを感じる感覚もなくなっており、ただ自分のことを悪魔ではないと否定してくれる何かを求めて走り続けていた。
俺は…、俺は違う…!俺は悪魔なんかじゃない…!
本能的に殺戮を続けるクレイグが堂々巡りを続けている思考の中で何度目かの祈りを念じた時、その目の前に唐突に一筋の光が差しこんだ。暗い地下トンネルの中で突如、目に入った小さな光が現実のものであるかどうか判断する理性はすでに残されていなかったが、その光こそが己の恐怖を否定してくれるものであると"感"で察知したクレイグは、足を踏み出す度に少しずつ大きく近くなっていく光の下へと傷ついた体を全力で走らせた。
俺を…、俺を帰してくれ!あの静かな時間に…!
背後から撃たれた傷口が広がり、膝まで浸かった足元の地下水に溢れた血が滴る。すでに十発以上の弾丸を撃ち込まれて重たく鈍い体を何とか前に進めるクレイグの前で暖かく包容感すら感じる光は徐々に大きく強くなっていき、あと数歩の距離まで近づいたその輝きの中に、見覚えのある愛らしい小さな影が立っているのを彼は目にした。長い金髪を首の後ろで束ねた小さな背中…。
レジーナ…!
クレイグが胸の中でその名前を読んだのと同時に少女は彼の方を振り返ったが、その顔は輝く黄色の光にぼやけて、はっきりとは見えなかった。
レジーナ!
胸の中でその名を強く叫んでも、強い光に包まれて見えない少女の顔に、理由の分からない不安を感じたクレイグは重たい足を無理矢理引きずり、より速く走ろうとしたが、少女の姿が近づく気配はなく、それでもその影に近寄ろうとクレイグがもがいていると、少女の長い髪の毛は短くなり、黄金色の髪色は茶色の縮れ毛に変わった。
俺…なのか…?
少女の代わりに目の前に現れた少年期の自分の姿にクレイグがそう問うた瞬間、少年の姿は変化し、彼の前には病室のベッドに横たわって、笑みを浮かべるハワード・レイネスの姿が現れた。
「悪魔は悪夢なんか見ないよ。」
ハワード…!
七年前と同じ言葉を口にした旧友の笑顔にクレイグが名前を呼び返した瞬間、朋友の面影は形を変え、カナダでの静かな日々の最後に出会ったウィリアム・R・カークスの影が今度は現れた。
「君は逃げているだけだ。」
そうだ…、俺は逃げていた。そして、逃げ続けるべきだった…。
厳しい目を向けて言ったウィリアムの影に、クレイグがそう返すと、黒い肌の影も揺らぎ、再び姿を変えて、その姿はアール・ハンフリーズのものになった。
「今度は必ず返せ。」
そう言った古くからの戦友の言葉と同時に、胸のポケットの中で暖かさを発し始めたライターを取り出したクレイグは、最後の約束を果たせなかった悲しみと無力さに涙を浮かべながら、錆び付いた小さな点火スイッチを押し下げた。
その瞬間、火がつくはずのない古いライターの口から小さな炎が発し、クレイグの周囲を金色の光で染めた。不思議なほど心が安らぎ、体の痛みや全ての重みから解放された光の中、
「お父さん!」
と自分を呼ぶ少女の声を聞いたクレイグが顔を上げると、眩い光の先で彼の最も愛する少女が立っているのを見つけた。
「レジーナ!」
今度はその顔もはっきりと見え、先程よりもずっと近くにある少女のもとに駆け寄ったクレイグ・マッケンジーは、包まれた光の中で娘の小さな体を抱きしめて小さく囁いた。
レジーナ、今帰るよ…。
クレイグがその下に辿りつこうと走っていた光はトンネルの外から差し込んでいる陽光だったが、しかしその光が入ってきているのは断崖絶壁の途中にトンネルが開けた穴であり、その先は三十メートルほど真下の小川に、地下トンネルの中の水が流れ出している小さな滝となっていた。
背後から数多の銃弾に撃たれながらも、自分を解放してくれるはずの光の中へ飛び出したクレイグの体は重力に従って引きずられ、数十メートル下の地面へと頭から転落していったが、その顔は何故か恐怖ではなく、穏やかな笑顔に包まれていたのだった…。
「何だ…?」
突然、周囲の鳥達が一斉に飛び立ち、それと同時に体の中を後ろから突き抜けた奇妙な温もりに、南ベトナム軍の小隊とともにジャングルの中を前進していたウィリアム達は背後を振り返った。誰かがいるような、しかし敵のものではないその気配は、確かに彼らの周囲を数秒の間、包んでいたが、ジャングルの中を風が駆けると同時に消えてしまった。
「一体、何だったんだ…?」
ARVN兵士達とともに、部隊の前衛についていたリーとアーヴィングは、お互いに首を傾げるだけだったが、二人のすぐ後ろについていたアールはその正体を確信していた。
「クレイグ…。」
彼は返されることのなかったライターの熱を胸の中に数秒の間、感じると、これから成すべきことに意識を集中させ、前進を再開した。
「イーノック、隊列を崩すな。」
先程の気配が気になり、足を止めている部下に呼びかけたウィリアムだったが、若い部下が歩き出したのを確認すると、背後のジャングルをもう一度振り返り、命を散らした仲間に静かな声で呼びかけた。
「戦士よ、今度こそ安らかな場所で眠れ…。」