第五章 五話 「砲撃」
文字数 3,199文字
「作戦開始五分前です。最終の命令確認を。」
通信士の一人が指示を仰ぐ張りつめた顔をグエンに向けると、グエンもブイに何かを確かめるような一瞥を送ってきた。この場の最高司令官はグエンであるとはいえ、合同での攻撃作戦の前衛を務めるのはブイが率いる解放民族戦線の方だ。戦闘になれば最初に犠牲が出るのはブイの部下だった。
無言で「良いのだな?」と確かめるような視線を向けてきたグエンにブイは「最後の覚悟は出来ている」と言う返答をやはり無言の相槌にして返した。
「作戦行動の予定に変更はなし!最初の支援砲撃終了とともに、前線の各部隊は各々の方角から前面の敵に攻撃を仕掛ける!」
指揮車の車内に響いたグエンの声が合図となり、命令を受けた通信士が現場の指揮官達と繋がる無線機に指令を同時に伝える、その緊迫した様子はブイに長い間、忘れていた"独立戦争"の感覚を思い出させてくれた。十分な訓練も統率もなく、士気の低い南ベトナム軍を相手にする戦いでは感じられない、全身に張り付く緊張感。その感覚にブイは目眩がしそうになったが、同時に体の芯から沸き上がってくる熱感に懐かしさも感じていた。
かつてフランスとの戦いの中、急降下で落とされる航空爆弾の爆発を避け、際限なく飛び交う銃弾を避けて飛び込んだ泥まみれの蛸壺の中で一寸先にある死の気配を死臭とともに感じ怯えながらも共に戦った仲間達全員が感じていたもの…。それが何であるのかは分からないが、二十年の長い時の中でブイがそれを忘れてしまっていたことだけは事実だった。自分の村を救いたい…、その一心で独立戦争に加わった青年が戦場で武功をあげ、年を取る内に、しがらみに捕らわれた大人に変わってしまった…。北か南か、ソ連か中国かという政治的な線引きに捕らわれ、そもそもの始まりであった独立の精神をも忘れかけている大人達の一員になってしまった自分に前線の兵士達と精神を共有することはもうできないのか…、と痛み知ったブイは自分の心の一部が死んでしまったような気がした。そしてそんな感慨に襲われたブイが再び指揮車の懐中時計を目にした時、その針は今まさに作戦開始の時を踏み越える瞬間だった。
「時間合わせゼロ!砲兵隊、攻撃を開始しました!」
最初の通信士の叫び声が響き渡ると同時に騒々しくなった装甲指揮車の車内で目を閉じたブイは瞼の裏に様々な人間の顔を映した。ベルやファン、その他にも今日戦場に散っていくかもしれない多くの部下達の顔を思い浮かべたブイは胸中で彼らの無事を神に祈ると、再び目を開け、指揮官としての仕事に取り掛かった。
北ベトナム軍の指揮所から更に北へ五キロほど移動した地点ではグエンの指揮する砲兵部隊が攻撃開始の時を待って、準備を整えていた。命令を経由する砲兵指揮所は部隊が展開した平原を見下ろす、周囲より小高い丘に設置されたテントに置かれており、そこでは砲兵部隊の指揮官が眼下で準備を進める部下達の姿を見下ろして、物思いに耽っていた。
敵は三百人規模の軍事顧問団基地をたった八人で壊滅させたアメリカ軍特殊部隊…、加えてあの勇猛果敢な黎鄭勝(レ・チン・タン)中将の率いる優秀なレンジャー兵士が百人もついている。戦力差で優位に立っているとはいえ、戦闘が始まれば、前線では多くの兵士が死ぬだろう…。
その冷たい現実とともに砲兵部隊の指揮官は現在の自分達の状況に情けなさも感じていた。ホー・チ・ミン作戦が実施されているせいもあって、集めることができた野砲は他部隊の装備を合わせてもたった八基の榴弾砲、加えて使用可能な砲弾の数も少ない…。前線では多くの兵士が命を賭すというのに自分達にできるバックアップの少なさに指揮官がやり切れなさを感じていた時、テントの中に指揮所専任の無線士が走り込んできて叫んだ。
「コードレッド!コードレッドです!本部より攻撃開始命令です!」
無戦士の興奮した声に指揮テントの中の幹部達は一斉に無戦士の方を振り向いたが、ただ一人、指揮官の男だけは部下の方を振り向かなかった。その代わり、眼下の砲撃陣地を向いたまま、目を閉じて、深いため息を一つ吐いたのだった。
こんな状況で戦闘開始の時は出来れば、来て欲しくなかった…。だが、もはや現実を逃避することは許されない。指揮官である以上、彼は前線で命を捨てる兵士達のためにも逃げる訳にはいかなかったのだ。大きな嘆息を一つ吐いた指揮官は配下の幹部達の方を振り向くと、最終命令を下した。
「全部隊に砲撃開始を命令!敵の指揮本部が敷かれていると思われる地点にのみ砲撃を集中し、砲弾を節約しろ、と伝達せよ!」
指揮官が命令を終えると同時に各幹部達は席を立つと、各々の部下が待つ配置場所へとテントを出て走っていった。その後ろ姿を見送った砲兵部隊の指揮官は避けたかった事態が始まったことを身を持って感じさせられ、再び嘆息をつくのだった。
コードレッド…、前線部隊突撃の前の支援砲撃開始の暗号指令を受けた北ベトナム軍の砲撃陣地では南の方角を向いた五基のD-20 一五二ミリ榴弾砲と七基のM-46 一三〇ミリカノン砲が指令受理と同時に毎分六発の速度で敵の指揮所へと砲弾を撃ち込み始めた。それと同時刻、前線部隊のすぐ背後についていた支援中隊も同じコードレッドの指令を受けて攻撃を開始した。八基の六三式一〇七ミリロケット砲から後方噴射の爆炎とともに、十二連装で装填されたロケット弾が次々と撃ち出される傍らでは、十基の一二〇ミリ迫撃砲PM-38と十二基の八二ミリ迫撃砲PM-37も毎分二発の速度で砲弾を撃ちだし始め、標的のクメール寺院には十七キロ離れた位置から飛来してきた十二発の榴弾砲弾とともに九十六発のロケット弾と二十二発の迫撃砲弾が北と南、それから北西の方向から一斉に襲いかかってきた。
地面に深く突き刺さると同時に半径五十メートル周囲に灼熱の鉄片をばら撒いた八発の榴弾砲弾が爆発の圧力によって、高さ数十メートルにまで土砂をを巻き上げ、地震のような揺れを周囲に伝えると、それに続いて着弾したロケット弾と迫撃砲弾が石造りの寺院のあちこちで次々と炸裂する。
ロケット弾が根本に直撃した熱帯樹が周囲の地面もろとも吹き飛び、そのすぐ脇に停車していたM54 五tトラックが爆風に吹き飛ばされ横転した先で更に八二ミリ迫撃砲弾の直撃を受けて、周囲の地面もろとも木っ端微塵に爆発する。昨晩、ブラボー分隊が借り受けていた掩体壕は厚い地面の屋根を突き破ってきた一二〇ミリ迫撃砲弾が内部で炸裂し、灼熱の炎と殺人の鉄片が荒れ狂う地獄の空間と化した。
タン中将の部隊が重要拠点を敷いているだろうと想定された遺跡の中心部には特に多くの砲弾が撃ち込まれ、昨日まで地下に部隊指揮所が置かれていた寺院建物にも一五二ミリ榴弾が直撃し、TNT爆薬の炸裂で建物が跡形もなく崩された次の瞬間、追い討ちをかけるかのように着弾した五発の迫撃砲弾と三基のロケット弾の直撃が地下指揮所を土と瓦礫の下に埋もれさせると、更に瓦礫の中に着弾した一三〇ミリカノン砲弾が止めを刺すように炸裂し、先日まで石造りの寺院があった場所には数々の爆発が重なったことを示す無機質なクレーターの数々だけが残った。
だが、限られた砲弾を使って、重点的な砲撃が加えられたクメール寺院の中心部には指揮機能は勿論のこと、兵士一人すらも居なかった。目論見通り、敵が遙か後方に砲撃を加えるのを塹壕で身を伏せたまま、地面から伝わる震動と爆発音で感じたウィリアムはM16A1を握りしめて、来たるべき近接戦に最後の覚悟を決めた。