第四章 十五話 「サブスタンスX」
文字数 3,530文字
「ARVN(南ベトナム陸軍)にしてはやるじゃねぇか。」
かつての戦争で南ベトナム軍の腐敗と組織としての未熟さを目にしていたリーはアーヴィングとともに基地周囲の警戒の様子を確認した後、ブラボー分隊のアメリカ兵達に割り当てられた掩体壕の中に入りながら、感心するように独り言ちた。
「俺も詳しくは知らんが、ここの部隊指揮官をしている黎鄭勝(レ・チン・タン)中将は南ベトナムの中で唯一とも言える潔白な軍人で、彼の部隊も良く精錬されて統制が取れているらしい…。」
いつの間に仕入れたのか分からない情報を語ったアーヴィングの前を先導して掩体壕の階段を降りたリーは、
「そんだけ知ってりゃ、充分詳しいよ。」
と一言だけ返した。
時刻はまだ十八時にもならないくらいで空は十分明るかったが、日光の入ってくる隙間が小さい掩体壕の中は暗く、空気の蒸し暑さも心無しか軽減されているようだった。日光の代わりに天井に吊るされた小さな電球の薄暗い光が照らす狭い掩体壕の中ではアールとイーノック、そしてユーリがそれぞれに与えられた簡易ベッドに腰掛けて座っていた。三人ともが俯き、重たい沈黙の横たわる掩体壕の中には騒ぎ立てにくい空気が流れており、普段は饒舌に喋るトム・リー・ミンクさえも掩体壕の壁にカービン銃を立てかけると、簡易ベッドの上に横になって口をつぐんでしまった。彼らの間に重たい空気が流れるのは当然だった。回収完了の直前で味方のヘリコプターに見捨てられ、戦闘の中で部隊の長老とも言えるイアンを失ったのに加え、敵の追撃を妨害するために別行動を取ったクレイグはそれから五時間が経過しても戻ってくることはなかった…。戦死二人、重症一人という状況に加え、基地に帰るための手段さえも失った彼らに活気などあるはずがなかった。
「どうしてサンダース少佐達は僕達を回収せずに帰ってしまったんでしょうか…。」
HK33を右腕に抱えてベッドに腰掛けていたイーノックがふと呟いた。
「そんなこと…、分かるなら今頃、こんなところにいねぇよ…。」
ベッドの上に寝そべって、ナイフの刃を研ぎながら素っ気なく答えたリーだったが、その声には普段のような張りも活気も無かった。
イーノックが溜め息を吐き、再び重たい沈黙が五人の間を流れた数秒後、無言でベッドから立ち上がったアールは部下達に言葉をかけることもなく、掩体壕の外へと出た。
十世紀の頃に作られた石造りの寺院を利用して構築した陣地の中央付近では指揮所などが並ぶ中に、ウィリアム達のために小さなテントが用意されており、その中では銃弾に撃たれた腹部に治療を受けたジョシュアが簡易ベッドの上で横たわっていた。ベッドの脇では処置をするベトナム人の軍医とともに、ウィリアムが瀕死の状態にある部下の容態を見守っていた。
「すみません…。」
心拍数が低くてモルヒネを打てなかったため、消すことのできなかった痛みに顔を歪めながら、今にも潰れそうな声を出したジョシュアに、ウィリアムは部下の目を見返しながら静かな口調で答えた。
「謝ることなんか何もない…。お前がユーリのことを守ったんだ…。」
「彼は…、無事ですか…?」
「ああ…、大丈夫だ。お前のおかげだ…。」
ウィリアムがそこまで返したところで、冷や汗をかき、青白くなったジョシュアの顔がテントの入り口の方を向いた。
「少尉…。」
ジョシュアの視線の先を追って、ウィリアムが振り向くと、テントの入り口の所でアールが直立の姿勢のまま、無言でジョシュアのことを見下ろしていた。感情の籠もっていない目でジョシュアのことを見つめている彼の姿は想像以上に重症だった部下の容態を目にして思いつめているようにも、また何かを強く決意しているようにも見えた。
「マッケンジー准尉は戻って来られましたか…?」
ただならぬ雰囲気を放つアールの姿に意識を引き込まれていたウィリアムは再び自分に向けられたジョシュアの問いに、なるべく動揺を見せないようにして答えた。
「ああ、今はお前と同じように怪我の処置を受けてるよ…。」
それが嘘であるとジョシュアに悟られたか否かは分からなかったが、ウィリアムは心中の動揺を抑えきれていなかった。微かに表情を柔らかくしたジョシュアは、「そうですか…。」と呟いた後、続いて「先任曹長は…。」と消えそうな声で問うた。その問いに意識の外に追い出そうとしていた部下の喪失を思い出さされたウィリアムは胸中に重い闇が拡がるのを感じたが、何とか部下には悟られないように明るい声で答えた。
「大丈夫だ、必ず救出する。だから、今はゆっくり休め…。」
二度も続けて嘘を言わなければならなかったウィリアムは静かにそう返すと、アールの方を振り返ったが、そこに既に彼の副官の姿は無かった。
「ちっ…、こんなことになるんだったら、俺もフォート・レブンワースの刑務所で死刑にされてた方がマシだったぜ…。」
ジャングルで捨てて来てしまった新型の三〇発マガジンの代わりに南ベトナム軍から支給された二〇発マガジンに五.五六ミリ弾を装填していたリーが投げやりな様子でそう言った。
「死刑って…、軍曹は何かされたんですか…?」
HK33ライフルを抱いたまま、ベッドに腰掛けて俯いていたイーノックは驚いたように顔を上げてそう聞いたが、リーは沈黙したままだった。
「ベトナムで現地人のことを違法に殺害してた上官を撃ち殺したんだよ。人種を理由に日頃からコケにされていた恨みも込めてな…。」
ベッドの上に仰向けに横たわって雑誌を読んでいたアーヴィングが代わりに答えたが、彼が言い終わると同時に激昂したリーがアーヴィングに向かって弾倉を投げつけた
「余計なこと言うんじゃねぇ!ボケがっ!」
弾丸を装填中だった弾倉が土の壁に当たり、地面に転がる音が響いた後、掩体壕の中には再び重苦しい沈黙が流れた。
「そう…、ですか…。」
イーノックには足元の方を俯いたまま答えたその返答だけが唯一返せる言葉で、この気まずい沈黙を破る気力も器量も彼には無かったが、イーノックが力なく答えた数秒後、土を掘り起こした階段を踏んで勢い良く壕の中に戻ってきたアールの気配が四人の意識を一点に集め、沈黙を破った。上官のただならぬ気配からして、何かの命令が与えられるものと思って身構えたリー、アーヴィング、イーノックの三人だったが、瞬きすらしないアールの双眸は掩体壕の一番奥で簡易ベッドに腰掛けてうずくまっているユーリしか見ていなかった。三人の兵士がその視線を追って、ユーリの方を振り返った時、アールが口を開いた。
「俺達はお前を救出するために大きな犠牲を払った…。だから、お前が…、お前の感情がどうであろうと、俺達がお前を回収しなればならなかった理由を教えてもらうぞ…、全てな…!」
震えながらも、特に語尾の方は強調して言い切ったアールの声は重たく、絶対に答えなければならないと感じさせる威迫が籠もっていた。
「少尉…。」
何か思いつめたような上官の顔を見上げて掠れそうな声を出したイーノックだったが、ユーリを睨みつけるアールの気迫は部下の声など全く受け付けていなかった。その凄みに押されたのか、今まで全く口を開くことの無かったユーリは背を向けていた体を四人の方に向けると、軍事顧問団基地から唯一持ち出して来ていた鞄を手に取り、その中から銀白色の鉄筒を取り出しながら、深い溜め息を吐いて真相を語り始めた。
「君達が僕を連れ帰るように言われたのは多分…、この"サブスタンスX"が理由だ…。」
「"サブスタンスX"だと?そりゃ、何だ?」
理解不能という表情で聞き返したリーの顔を見て、予想通りの反応を得たというような微笑を神経質そうな眼鏡面に浮かべたユーリは膝の上に置いた、全長六十センチ、底面の半径が十センチほどの大きさの金属筒容器の上面を操作した。
「口で説明するだけでは理解しにくい。」
ロックの外れる機械音とともに開いた金属容器の上面をユーリが引っ張ると、気体が吹きでる音と白い蒸気とともに青白い光に包まれたガラス棒のような物体が姿を現した。
「これが"サブスタンスX"だ…。」
眼前の奇異に目が釘付けとなった四人の兵士達の心中には最早これからの自分達の行く末に対する心配などというものは消え去っていた。