第二章 十九話 「濃霧」
文字数 4,672文字
基地のほぼ全体を見渡せる小高い丘を見つけて、更にそこに生い茂る熱帯林の高木の内の一つに登ったイアンは双眼鏡で周囲の様子を確認した。ラペリング降下で崖を降りている分隊の姿は見えなかったが、最大で八百メートルほど離れている敵基地内の殆どを自分が狙える位置にあることを確かめた彼は無線に配置完了の旨を伝えると、背嚢とともに降ろしたショルダーバッグケースを開き、中から大型の暗視スコープと専用の大型バッテリーを取り出した。木から落ちないように枝にロープで巻きつけた大型バッテリーに防水コードの一端を取り付け、さらにその太いコードのもう一端、大型のコンセント状の接続部が二つ飛び出しているが、そちらを暗視スコープの側面に接続すると、今度はジャングル迷彩の塗装に包まれた長身のライフル、M21狙撃銃を取り出し、そのレシーバー上に元より取り付けていた3-9x倍率調整式スコープの先端に、先程の大型暗視装置を取り付けた。
「くそ…。やっぱり重たいな…。」
標準スコープの先に外部コードの付いた大型暗視装置を取り付けたことで、重心がやや前方に偏ったM21狙撃銃を構えて、イアンはゲネルバでの作戦の時と同じ愚痴を一人こぼした。しかし、ただ大きく重いだけでなく、先端に取り付けた光量増幅型パッシブ方式暗視装置の補正で緑がかったスコープの中の視界は、夜闇の中でも敵基地の詳細を見ることができた。加えて、この暗視装置はボタン操作一つで熱感知型のサーマルビジョンにモードを変更することも可能だった。
ベトナム戦争時にアメリカ軍に使用されていたAN/PVS-2ナイトビジョンスコープと全く世代を異にするほどの進化を遂げた暗視装置に加え、サプレッサーとライフルギリーをM21に装着したイアンは、背嚢をクッション代わりにして、背後の木の幹に体を預け、立てた左膝の上にスナイパーライフルの銃身を置くと、座り撃ちの姿勢をとって、敵拠点の偵察を始めた。
まずはウィリアム達がラペリング降下で谷底に降りようとしている深さ五十メートルの谷を見てみる。敵基地は一応、侵入者に備え、谷側にも等間隔で機銃陣地を備え、加えて、北、東、西に設置された高さ二十メートルほどの監視塔が谷の反対側にも探照灯の光を巡らしていたが、谷は厚い濃霧が覆い、その白いベールが絶壁をラペリング降下するブラボー分隊の隊員達の姿を敵の監視の目から隠していた。
イアンはM21の銃身を巡らし、最も厳重な警戒が敷かれている北側ゲートに暗視スコープの目を向けた。橋を介して、外部と繋がっていることから外敵の突入に備えた北側ゲートは、基地の他の全周を囲む鉄条網とは異なり、コンクリートの厚い壁で防御され、その上には重機関銃を擁した機銃座とサーチライトの光で周囲を警戒する監視塔が二基設置され、加えてゲートに入る車両道の左右には機銃陣地の他、二基のソ連製四五ミリ対戦車砲と一基のZPU-4四連装対空機関砲が来たるべき侵入者に備えて、橋の方を向いて鎮座していた。
橋の上には車両の突撃を食い止めるための車止めが幾つか置かれ、さらにその橋を挟んで谷の反対側にも警戒所が配置されており、重機関銃付きの機銃陣地に加え、その脇にはT-55タイプの共産圏主力戦車と銃架に機銃を積んだジープが停車していた。どちらにも人の姿は見えないが、ナイトビジョンをサーマルモードに切り替えると、戦車のエンジン部分から熱が発せられているのが分かった。
「上等な武器、持ってんじゃねぇか…。」
いかに暗視装置を通しても、その画質の荒い視界では細部を検証するのは困難だったが、この仕事を三十年以上も続けてきたイアンにとっては、数百メートル離れた位置の兵士が持つ武器もある程度は判別できた。そして、イアンが思わず、独り言を漏らしたのは敵の歩哨が持つ武器が、彼のものほどとは言えないといっても、暗視装置を取り付けた高性能武器であったからだった。
「AKMNにM3カービン…、夜の警戒もバッチリと言う訳か…、さすがは軍事顧問団基地だな。中途半端な攻撃では抜けんか…、だが…っ!」
そう独り言ちたイアンはM21狙撃銃の銃口をアール達が谷から登ってくるであろう西側の監視所に向けた。
イアンがナイトビジョンの目で、敵拠点内部の様子を窺っている時、ラペリング降下で深さ五十メートルの谷を底まで降りたウィリアム達は事前の計画通り、二つのチームに別れて作戦を遂行していた。基地の西側に向かったアールのイーグル・チームと別れた、ウィリアムの率いるラット・チームの四人は基地東側へと続く階段に向かって、お互いに五メートルの間隔で展開し、ゆっくりと歩を進めていたが、谷底を覆う霧は数メートル横にいるはずの味方の確認も困難なほど深く、本物の戦場の空気を肌で感じたイーノックは無意識の内に手汗の滲んだ左手の人差し指をマークスマンライフルのトリガーガードにかけていた。
フォート・ベニングでは濃霧の中での行軍訓練も行ったが、この霧の向こうにいる敵は教官達がなりきった仮想敵ではない、正真正銘の敵だ。見つかれば催涙弾の代わりに本物の銃弾が飛んでくる。こちらを本気で殺しに来るのだ。霧とともに周囲を覆う殺気がイーノックの精神を侵食し始めようとした時、突然、隊内無線に響いたウィリアム声がイーノックの心の中で蠢き始めた恐怖の胎動を制止した。
「ラット・チーム、全隊停止!」
骨伝導イヤホンを通して耳に入ったウィリアムの低い声に、分隊長のハンドサインが濃霧のせいで見えずとも、一斉に立ち止まり、身を低くしたラット・チームの隊員達は各々の武器を構え、周囲を確認した。自分達の足音で先程まで聞こえていなかったが、数人の話し声が聞こえてくる。白い濃霧の向こうから聞こえてくるベトナム語の会話に周囲を見回しながら、落ち着きを失ったイーノックが、
「霧が話してるのか…?」
と未だ姿の見えない声の主に苛立ちを洩らすと、いつの間にか背後に近づいてきていたクレイグがその肩を叩き、人差し指を口の前にたて、静かにしろ、と無言で伝えると、霧の一方に向かって顎をしゃくった。
目を細めてクレイグの指した方向を見たイーノックは白濁色の霧の中に最初は何も見ることができなかったが、数秒して、霧の中から近づいてくる声の主をしっかりと視認することができた。そして、声とともに近づく微かな光、見回りの民族戦線兵士達が手に持つライトの光に気づいた数秒後には、イーノックとクレイグは身近な物陰に身を隠していた。
二人と同じように崖の岩陰に身を隠していたウィリアムは迂闊に身を乗り出せないため、姿を視認することはできないが、会話のやり取りが把握できるほどまで大きくなった声から敵が数メートルの距離に近づいていることを察知して、
「ラット・チーム全隊、動くな。」
と隊内無線に小声で呼び掛けると、左腰の小型ホルスターからハイスタンダードHDM消音拳銃を抜き取って、右手に握った。
緊張で張りつめた沈黙が滞留する霧の底、土を踏む足音ともにベトナム語の会話が自身のすぐ真横を過ぎ去る気配を感じたウィリアムは、身を隠していた岩陰から僅かに顔を出し、霧の中へと消えていくカーキ色の戦闘服の背中を見送った。
見慣れたNLF(南ベトナム解放民族戦線)正規兵の戦闘服だ。装備はAK-47や五六式小銃に加えて、B-40ロケットランチャーまで…。通常の歩哨にしては重装備すぎる。やはり、ここが重要拠点であることの証拠か…。
ウィリアムが去っていく歩哨達の後ろ姿を見つめながら、そんなことを考えた時、視界の隅でイーノックの影が岩陰から姿を出すのが霧の中に微かに見えた。
バカ…、まだ早い…!
そうウィリアムが胸中で叫んだ瞬間、イーノックのすぐ背後に人影の輪郭が浮かび、カーキ色の戦闘服に身を包んだ民族戦線兵士が姿を現した。イーノックは気がついていなかったが、突然、敵と出くわした民族戦線兵士は驚愕の表情とともに手に持った五六式自動小銃をイーノックに向けて構えた。
背後で発した物音に振り向いたイーノックの視界に入ったのは、近距離で自分の頭に向けられた銃口だった。至近距離で撃たれる銃弾をどう回避すべきか…、イーノックが考えたのはそんなことではなかった。いや、思考など戦場の緊張感の中で既に擦り潰されており、彼が自分の置かれた状況を本能的に理解するのと同時に感じたのは、背筋に走った悪寒と胸の中で広がった、死が敵地での恐怖を終わらせてくれるという奇妙で温かい安堵感だった。
目の前の視界に映る映像がスローモーションのようなゆっくりとした動きになり、聞こえてくる音さえも悠然としたものになって、イーノックには目の前の敵兵士が自動小銃の引き金を引き絞る動きが詳細まで見えた。そして、その引き金が引き切られた瞬間、パシッ、という小さな破裂音とともに、イーノックの目の前が赤く染まり、同時に暖かい感触が顔に飛び散った。
死んだ…?これが死ぬということなのか…?
イーノックがそう考えた瞬間、
「気を付けろ!」
隊内無線にウィリアムの囁くような、だが怒りのこもった叱責の声が聞こえた。その声に意識を引き戻され、イーノックが目を開くと先程、自分に五六式小銃を向けていた民族戦線兵士がハイスタンダードHDMの.22ロングライフル弾で貫かれた側頭部から血を流して、地面に倒れ付していた。
声を出すことはできないので、姿勢だけでも命を助けてもらった謝辞の意を現そうとしたイーノックだったが、今度は左方向に複数の影が霧の中に浮かんだのを視界の隅に捉え、体を硬直させた。ウィリアムも同時にそちらを向いたが、すでに遅かった。
霧の中から現れた三つの人影、こちらに気づいた民族戦線兵士達がベトナム語で何かを喚きながら、手にしたAK-47を構えていた。ウィリアムとイーノックも反射的にそれぞれの銃を構えてようとしたが、既に遅かった。敵は三人、しかも既に銃を構えている。
「避けろ…っ!!」
傍らのイーノックに叫び、ウィリアムがすぐ脇に飛のいた瞬間、三人の民族戦線兵士の内、一番後ろに立っていた兵士の首を何かが擦過し、頸動脈を引きちぎって、致死量の出血を吹き出させると、黒い物体はそのまま進行方向にいたもう一人の兵士の側頭部に突き刺さった。
弓矢だ…。弓矢が何で…?
民族戦線兵士の側頭部に突き刺さった細長い物体を見て、そう動揺したのはイーノックだけではなかった。突然、仲間に起こったことが理解できず、目の前の敵も忘れて、弓矢が頭に刺さった仲間の方を見つめた民族戦線兵士はその瞬間、霧の中から飛び出してきた獣に地面に引きずり倒された。
あまりにも短時間の間に、戦場ですら見ない光景が次々と続き、一拍反応が遅れたウィリアムとイーノックが、兵士に襲いかかった獣がクレイグだったことに気づいた時には、首を掻ききられた兵士の横で立ち上がったクレイグがバルカン・ダイバーナイフに付いた敵兵士の血肉を戦闘服のズボンの裾で拭いていた。
「彼らが無線に答えないのを不審に思うかも…、急いで行きましょう。」
圧倒されているウィリアムとイーノックの前でクレイグは何でもないかのような冷静な態度のままでナイフを仕舞うと、地面に置いたCCGクロスボウを拾って構えた。
「あ…、ああ…。」
としか返す言葉がなかったウィリアムは同じくクレイグの行動に驚いた顔をして、霧の中から出てきたジョシュアに隊形を立て直すように伝えると、根本に爆弾を仕掛ける橋の下へと向かった。