第二章 十七話 「問われる正義」
文字数 3,910文字
「どうだ?通訳できそうか?」
「いや…、あまりにも訛りが強すぎて……。ベトナム語は方言のようなものがとんでもなく多くて、加えて独自の言語を喋る少数民族も何十といますから…。」
捕えた現地人の青年と話をしようとしたものの、ジョシュアの通訳も全く役に立たず、困り果てていたウィリアムはクレイグが連れてきた少女の小柄な体を見て、深い嘆息をついた。
「そっちも子供だったのか…。言葉が通じると良いな…。」
クレイグが青年の横に少女を座らせるのを背後に、立ち上がったウィリアムは眉間を右手で押さえながら、両目を閉じて首を左右に振った。
自分があの時、"彼"の幻想に惑わされていなければ、こんなことにはならなかった…。ゲネルバの時も、同じようにして、ハワードを失ったばかりなのに…。何度繰り返しても、いつも同じようにして…。
「隊長。どうされるおつもりですか?あの二人。」
自責の念に囚われていたウィリアムは唐突にかけられたアールの声に我に返り、目を開いた。アールの目線は捕らえた二人を見つめていた。
「武器は持っていない。」
二人を見て、ウィリアムは呻くように弱々しく言ったが、
「武器は持っていなくても、ベトコンの可能性はあります」
とアールに即座に反論された。
「このまま、彼らを開放すれば、村の兵士達に我々のことを伝えるかも…。」
アールの言っていることは正しかった。部隊の安全を守るためには、目撃者は消した方が良いに決まっている。普段であれば、いや、もしここがかつて初めての戦争を体験した地でなければ、迷いなどなく、ウィリアムもアールと同じ考えに辿り着き、手を下したであろう。だが、ここはベトナムだった…。
「殺せ…、というのか?」
部下を見返して呻くように聞き返したウィリアムに、アールは少し驚いたような顔をした。そして、同時に彼は苛立っているようでもあった。何を躊躇っているのだと…。
「お気持ちはわかります。ですが、大尉、あなたの任務は敵拠点を殲滅し、標的の科学者を救出すること…。そのためには部隊を守ることが最優先のはずです!」
そう、そうすべきだ。それが正しいのは分かっている。だが…、だが…。
「我々が手を下したのが発覚すれば、それこそ国際問題になる。」
先程の幻覚の影響で、まだ微かに震える声で、ウィリアムは苦し紛れの逃げ道を吐いた。
「彼らを…、このまま、どこかの木に縛り付けておいて、作戦終了後に解放するのではだめか…?」
殺さず、作戦の安全も保つ苦肉の策であり、完璧であるとは言えなかったが、ウィリアムには自分が手を下すことも、部下にそうするように命じる覚悟も、今はなかった。
「仲間が発見する可能性がありますが…、我々が直接手を下すよりは…。」
アールも少しは後ろめたさを感じていたのか、譲歩しそうになった瞬間、彼の背後から「直接、手を下すよりも卑怯だ!」と糾弾する声が飛んだ。その声に驚き、ウィリアムとアールが視線を向けると同時に、クレイグ・マッケンジーはアールに詰め寄った。
「部隊の安全に関することを話し合っている!アドバイザーは下がっていろ!」と語気を荒げて反論したアールに、「アドバイザーでも、俺はこの分隊の隊員だ!」と同じく語気を鋭くして返したクレイグは、ウィリアムの方を向いて続けた。
「大尉。彼らを縛り付けて、こんなところに一日置いていたら、明日の朝まで生きていられないことはお分かりのはずです。お忘れになったのですか、このジャングルには虎や熊もいるということを…!」
肉食動物に襲われる危険だけでない。こんな熱帯の森の中に手足を縛られて、水も飲めぬように放置されれば、命の危険は相当あった。また、仮に彼らが一晩を生き延びたとしても、任務を終えたウィリアム達がこの場所を通って帰ることができるとは限らない。その場合、彼らは誰かが近くを通りかからない限り、ここに縛り付けられたままになる…。
「我々が話し合っているのは部隊の安全に関わることだ!偶然、出会った現地民のことではない!」
アールがすかさず反論したが、クレイグも食いついた。
「そんな…。部隊の安全や任務の達成のためには、民間人を殺戮してもやむを得ないというのか?」
「現実を見ろ!戦争に正義などないんだ!」
そう、正義などない、それが戦争だ。自分はかつて、それを痛いほど思い知って、この地を後にした。そして、その間違いを繰り返さぬようにしてきたはずなのに…。
それでも、ウィリアムは言い争う二人の部下を前にして、残酷な決断を下すことはできなかった。
「それに前にも実例がある…。七年前だ…。」
このままの口論では解決しない、と思ったのか、アールが話を切り替えるとクレイグの反応も変わった。それはクレイグがアメリカを捨てることとなったカンボジアでの作戦の出来事のことだった。
「あの事件を引き合いに出すつもりか…?」
その瞬間、二人の間に生じた気配の変化にウィリアムは、駄目だ、と思った。
自分が今、ここで決断しなければ…。
「事実、貴様の判断で部隊は全滅した。俺の兄さんも…。お前はあの時も今と同じ決断を下した!」
声を荒げたアールに、「なんだと…!お前…ッ!」とクレイグが飛びかかりそうになる、その瞬間だった。
「もう良い!」
ウィリアムの振り絞るような声に、先程までお互いしか見えていなかったアールとクレイグは、同時にウィリアムの方を向いた。
「分隊長は…、私だ…。私が指揮を下す。」
二人を見返しながら、ゆっくりと言ったウィリアムは静かに続けた。
「可能性は消しきれないが、二人が民族戦線と繋がりがあるという確証はない。よって、二人は解放する…。」
その言葉に目を見開いたアールがウィリアムに詰め寄った。
「大尉!あいつら、村に戻ったら大人達に言って大軍を引き連れてきますよ!」
ウィリアムは険しい表情の部下から目をそらし、二人の子供を見た。あどけない顔の二人は自分達の運命を悟っているのか、喚いたり暴れたりすることなく、両手を後ろに縛られたままで大樹の根本に静かに座っている。二人の脇でこちら向いて、どちらの命令に従うべきか当惑しているジョシュアにウィリアムは小さく頷いた。分隊長の指示を確認したジョシュアはナイフで青年の方から拘束バンドを切り始めた。
「ジョシュア!」
アールが制するように声を荒げたが、ジョシュアは反応しなかった。先に拘束を解かれて立ち上がった青年は銃を向けて警戒するアールとクレイグに一瞥をやったが、臆することなく、少女が拘束を解かれるのを待っていた。そして、少女の拘束が解かれるとともに、青年は少女の細い腕を握って、クレイグの脇を走り去り、時折、ウィリアム達が追いかけてこないか確かめるように振り返りながら、ジャングルの中へと消えていった。
「隊長!あなたは明らかに冷静さを失っています!」
二人の姿が茂みの向こうに完全に見えなくなって、静寂が舞い戻った刹那、アールがウィリアムに詰め寄った。静かな声だったが様々なことに対する憤りが感じられた。
「我々が最も優先しなければならないのは任務の遂行。それなのに、あなたは今、余計なリスクを取って、部隊を危険に晒している。」
ウィリアムは敢えて部下の怒りを感じていないかのように平然として答えた。
「配置に戻るんだ、少尉。リスクを取りたくないなら、経験の浅いイーノックの側を離れている現在の状況は賢明とは言えんはずだが…。」
「何故だ…。何故なんです…。非情な決断なんて初めてじゃないでしょう…。」
上官の行動の真意が掴めず、呆れたような、戸惑うような声を出しながら、目尻を押さえたアールに、ウィリアムは「少尉!」と声を荒らげて叱責した。
「目標地点に向けて、前進再開する。持ち場に戻るんだ!」
まだまだ言い足りないことが沢山あるといった様子で、首を横に振りながらアールが持ち場に戻っていくのを見送ったウィリアムは隊内無線を開いた。
「リー。予定より前進を速める。頼んだぞ。」
だが、返答はない。
「リー!聞こえているのか!」
もう一度、声を荒らげて隊内無線に呼びかけると、「了解。」とふて腐れた声が返ってきた。彼もウィリアムの選択に納得していないようだった。しかし、それも当然である。部隊の安全を最優先に考えて行動すべき分隊長が本来取るべきだった選択肢とは全く反対の選択肢を選んだのだから…。
このままでは隊が分裂する…。
胸のうちに最悪の状況に対する不安がよぎった時、「正しいです。」と脇からかけられた声にウィリアムは意識を引き戻され、傍らを向いた。少し身長の低いクレイグの顔がこちらを見上げていた。
「あなたの選択は正しいです…。」
その言葉にウィリアムは一瞬の間、安堵を感じた。
そうだ…。この選択は人間として正しい…。正しいのだから…。
そこまで考えたところで、感情に流されそうになっている自分に気づいたウィリアムは軍人としての思考を取り戻して告げた。
「准尉、前進再開するぞ。位置につくんだ!」
クレイグは小さく頷くと、微かに表情を明るくし、「ありがとうございました…。」と返して、分隊の前衛位置へと戻っていった。
クレイグが再び位置についたことを隊内無線に告げ、各員から周囲に異常のないことを確認する返事が返ってくるまでの間、ウィリアムは傍らの大木に体をもたれさせ、両目を閉じて己の選択を再び問うていた。
選ぶべきだったのは、人としての正義か、軍人としての正義か…。答えは出なかった。