第四章 二十六話 「裏切りの真実」
文字数 5,090文字
身を呈してでも守らなければならないはずの回収目標を拘束し、その頭部にブローニング・ハイパワーの銃口を突き付けたイーノックを見つめて、アールは呻くことしかできなかった。アールの背後ではリーとアーヴィングが各々の武器を構え、つい先程まで味方だった新兵を睨み、相手の出方を窺っており、その更に後ろでは銃声を聞いて駆け付けた南ベトナム軍兵士達が掩体壕の入り口に殺到し、招かれざる客のために貸し出された壕の中の様子を窺っていた。
「すみません…、少尉。これが俺の為すべきと信じることなんです…。」
つい先程までの未熟な新兵の面影を消し去り、鋭い光を瞳の中に灯したイーノックはユーリの頭にブローニングHPを突き付けたまま続けた。
「この科学者を…、彼の開発した物質がもしも邪悪な支配欲や危険な独裁欲に取り憑かれた人間のの手に渡れば、どんなことが起きるか…。皆さんにも分かるはずです!」
強い語調で問うてきたイーノックの言葉に三人のゴースト隊員達も各々が胸の中に隠していた迷いを揺り動かされ、心中を掻き乱されて、誰一人として返答することができなかった。
「一度この世界に放たれれば、無限にその効果範囲を増殖させていく物質…、"サブスタンスX"が効力を発揮した世界では地球上のどの国も原子力発電や核兵器を使用することは不可能になるでしょう。その結果、特にアメリカ、西欧を始めとする、原子力発電にエネルギー生産を依存した国々は深刻なエネルギー不足に悩まされ、避けようのない混乱が世界中で生じる。同時に核兵器が無くなったことで世界の軍事バランスは乱れ、核の抑止によって、三十年間保持されていた世界大戦の封印は解かれ、我々はかつての大戦を遥かに超える、最新技術が創り出す破壊と殺戮を目にすることになるかもしれない…。それが本当に正しい事だと少尉達はお思いですか?」
「そんな事起きるとは限らねぇ!それに俺達は兵士だ!世界のバランスや核抑止なんて難しいことを考えるのは俺達の役目じゃねぇ!俺達ができるのはアメリカと俺達の国のに住む人達のために戦うことだけだ!」
イーノックの眼差しと言葉に胸を貫かれて返すべき答えが見つからず、硬直することしかできないアールの後ろでトム・リー・ミンクが声を荒らげたが、いつもは気弱なイーノックはアール達に初めて見せるような強い語気で反論した。
「違う!本当はそうは思っていないはずだ!だから、あなた達はこの部隊に集められた…!もう一度、"ゴースト"となる前の自分自身と向き合って下さい!何故、厄介者の寄せ集めと呼ばれるこの部隊に加わることになったのか…、その過去と向き合ってください!」
肌の色が黄色いという理由でアジア系の自分を馬鹿にし続けたに留まらず、ベトナムの民間人を無差別に殺戮した上官と同僚達に激昂し、一人残らず殺害したトム・リー・ミンク。そして彼と同じ分隊に所属し、友を人間として信頼していたが故に周囲の反対を押し切って、リーのことを弁護し続けたアーヴィング。命令や立場よりも自分自身の倫理と正義感を優先したが故に軍や政府から疎まれ、排斥されたからこそ、彼らは今ここにいる…。それまでの名前と人生を捨て、亡霊として国と正義のために仕えるために"ゴースト"に入隊したのだ。
命令に従わなければならないという絶対の運命があったとしても、人間である以上どんな兵士も最後は自分自身の良心に問うて行動しなければならない…。
意識の上でも無意識の中でも、そう考えていた過去の思いを、想像すらしていなかった部下の言葉に思い起こされ、心が揺らいだのか、一瞬の間、視線を泳がし沈黙したリーは、
「てめぇに俺の過去や心情をどうのこうの言われる筋合いはねぇ!」
と激昂とともにXM177E2を構え直したが、カービン銃を握る彼の手は心の動揺を映したかのように震えていた。
「核の抑止が創った平和のせいで人間が無秩序に増加し、地球と自然環境に大きな負担をかけるようになった現在の世界は間違えている…。だからこそ核の抑止を取り払い、世界に再び大いなる混乱と戦争を呼び起こして、真に生き残るべき少数の人間だけが地球という限られた自然資源を利用して生きていくことを許される世界を創る…。それこそが貴方がたの指揮官…、エルヴィン・メイナードが信じる正義です…!」
「大佐が…?」
最も予期していなかった者の口から唐突に語られた自分達の指揮官の本当の目的にアール達は唖然とすることしかできなかった。
「馬鹿な…、お前が大佐の何を知っているというんだ…。大佐は絞首刑の日を待つことしかできなかった俺を…、俺をレブンワースの刑務所から救い出してくれたんだぞ…!」
イーノックの言葉を否定しようとするリーだったが、その声に普段のような強い芯は無く、カービン銃を構える手も震えたままだった。口では否定していいても、自信を持ってイーノックの言葉を打ち消すことができないのは彼らにも思い当たる感覚があったからだった。自身の過去は勿論、不必要なことは部下に対しても何一つ漏らさぬメイナードの本質をブラボー分隊の隊員達は知りはしなかったが、長い時間を間近で生きてきた中で、その考え方を肌で感じてくることはできた。だからこそ、世界を包む混乱と戦争で弱者を切り捨て、強者のみが生き残る世界を創るのがメイナードの最終的な目的という、何の信憑性もないはずのイーノックの言葉をアールもリーもアーヴィングも否定することはできず、それどころか心中の何処かで予感していた事態に胸騒ぎを抑えられないのだった。
突然の告白、しかし何処かで覚悟していた事態に固唾を飲んで新兵の次の言葉を待つしかない三人の前でイーノックは一息置いて続けた。
「俺は大佐の謀略を止めるために、この部隊に入ったんです…、CIAに要請されて…!」
「CIAだと…?」
「まさかお前、最初から俺達を騙して…!」
予想だにしていなかったイーノックの言葉にアーヴィングとリーが相次いで驚いた声を漏らす中、棒立ちのままのアールは目の前の新兵の顔をただ見つめることしかできなかった。
兄が戦場で見たもの、彼の命を奪ったものの正体を知りたい…。その思いがイーノックに"ゴースト"への参加とベトナム行きを決意させたことは間違いない。だが、その決断を彼が下したのはメイナードとウィリアムが初めてイーノックと対面したニ月四日よりも数日前のことだった。
「アメリカ、いや世界の調和を守るため、我々に力を貸してほしい…。」
基地ではなく、訓練を終えてイーノックが帰ってきたアパートの玄関ホールで彼のことを待っていたCIAエージェントはそう言った。
「君が知りたいと思っているお兄さんの死の秘密も知ることができるかもしれん…。」
そうも言ったアジア人のCIAエージェントは自身の名をリロイ・ボーン・カーヴァーと名乗った。部下も連れず、一人で現れた男の話を無視することもできたが、リロイの口から出た"兄の死"という言葉に忘れようとしていた無力感と自責の念を思い起こされたイーノックは我にもなく夢中になって男の話に聞きいってしまった。
「これから数日後、二人の陸軍士官が君に会うために基地にやってくるだろう…。君の任務は二人の申し出を承諾し、彼らの動向を監視することだ…。無論、安全な任務ではない。かなりの危険が伴う。だから、決断は君に任せる。だが…。」
そこで言葉を止め、一拍おいた男はイーノックの目の奥を見つめながら続けた。
「任務の場所はベトナムだ。」
リロイのその言葉にイーノックの心臓の鼓動が速まった。兄を、彼の運命を狂わせた土地…。世界の中で唯一、兄が死の直前に抱いていた感情を知ることができる可能性のある国の名が出たことでイーノックはますますリロイの話に引き込まれた。
「君はお兄さんの死の真相を知りたくて、自分自身も陸軍に入隊したと聞いている。お兄さんが従軍したお陰で通うことができた大学すら辞めてまでそうしたのは自分も同じように戦場に出れば、お兄さんの気持ちを理解できるかもしれないと考えたからだろう?」
アパートの外で静かに降り始めた雨が雫を散らす音が静かに速まっていく中、イーノックはリロイの話を黙って聞き続けていた。
「だが、君も知っているようにベトナム戦争の影響で世論は戦争反対に大きく傾いている。恐らくアメリカはあと数年間は他国と戦争できないだろう。無論、パリ協定で禁じられたベトナムに派兵することなどは絶対に不可能だ。そうなれば、君がお兄さんの死の真相を知る日は遠のいていくだろう…。」
もしかしたら、その時は永遠に来ないかもしれない…。リロイの言葉にイーノックは底知れぬ絶望感を感じていた。ただ、軍に入隊するだけでは兄の感じていたものを理解することは不可能だった。もしそれができるとすれば、それは兄と同じように戦場に行くことで可能になるはずだとイーノックは考えていたが、その一方で戦場に行くだけで兄の気持ちを本当に理解できるのかという懐疑と不安が彼の心の中に残り続けていたのだった。その不安が自分よりも遥かに戦争と世界について知っているであろうCIAエージェントの口から語られた言葉により益々大きくなり、心中を埋め尽くしていく中でイーノックはリロイの提言を受け入れる覚悟を決めていた。
兄が帰国して五年、アメリカ撤退からはまだ二年足らずのあの国では、兄を苦しませた戦争がまだ続いている。兄と同じ場所で同じ戦争を戦うことこそが自分の知りたい真実を知ることのできる唯一の可能性、そして今、目の前にある任務こそが最後のチャンスだと確信したイーノックは心に残る不安と動揺を打ち消し、その場で即座に返答した。
「俺、ベトナムに行きます…!」
ブラボー分隊の隊員達が遠く離れたカンボジアの地で味方同士で銃を向け合うという壮絶な状況に対面している時、失踪したメイナードの捜索とともに爆発した車両の撤去と犠牲者の遺体の収容が行われていたタイ空軍基地では、閉め切られた司令室より外で現場の空気を吸いたいと思ったリロイ・ボーン・カーヴァーが管制塔最上階のバルコニーに登り、眼下で忙しく動く車両のヘッドライトやその光に照らされた人々の影の蠢きを見つめながら煙草に火をつけていた。口から吹き出した、くすんだ灰白色の紫煙がブラボー分隊の置き去りにされた南東の方角に流れていくのを目で追ったリロイは大きな溜息を吐いた。
自分の決断が八人の男達の運命を切り捨てた…。
優先すべき脅威への対処があったとはいえ、大部分の安全を守るためとはいえ、現場の兵士達を一人でも見捨てるのは胸に槍を刺されるような痛みに襲われる。見えない痛覚に何時まで経っても慣れることのできないリロイは少しでも心中の痛みを和らげようと再び煙草を口に近づけた。その瞬間、東南アジアの蒸し暑い空気に汗ばむリロイの体に心地よい夜風が微かに吹き付けて去って行った。
ゲネルバでの任務の後、隊員の死亡や負傷により生じた"ゴースト"の欠員を補うため、メイナードがCIA内部の同胞者に調査を依頼した新たな隊員の候補者リスト…、その名簿をメイナードに先んじて入手することに成功したリロイはリストの中でも"ゴースト"が採用する可能性の高いと思われる数人に接触した。その内の一人がイーノック・アルバーン…。
"ゴースト"のブラボー分隊はゲネルバで戦死したハワード・レイネスの代わりとなるマークスマンを求めており、分隊長のウィリアム・R・カークス大尉のベトナム戦争中の人間関係を考慮すると、兵士としても友人としても信頼を置いていたヴェスパ・アルバーンの弟であるイーノック・アルバーンに接触する可能性が極めて高い…。
様々な可能性を吟味して結論を導き出した部下達の推測を信じたリロイはメイナード達よりも先にジョージア州・ フォート・ベニングに向かった。イーノックが自らこの世を去った兄の心に巣作った戦場の闇に強い関心を抱いているという情報とともに…。そして、交渉は成功した。メイナードや"シンボル"の幹部達に気づかれることなく、リロイは優秀で従順な新兵を"ゴースト"内部に潜り込ませることに成功したのだった。だが…。
若く未熟なイーノックには重過ぎる責務だったかもしれない…。
大きな危機が迫っていたとはいえ、まだ二二歳の若者を戦場に送り込んだ上、置き去りにまでしてしまった自身の行為に悔悟を噛み締めたリロイは手にしていたタバコを夜の闇の中に放り捨てると踵を返して、管制塔のバルコニーを後にした。