第二章 二十三話 「格闘」
文字数 5,229文字
ヘリコプター発着場の西に建ち、西側に隣接する中央棟とは金属製の橋がかけられ、三階部分でつながっており、南側にはヘリに発着指示を出すコントロールタワーを有する管制棟建物の北側で、木箱の間に隠れて合流の時を待っていたクレイグは突然覗き混んできた影に、手に持っていたMk22を危うく発砲しそうだったが、「待たせた。」と英語で囁いた声で、影がウィリアムであると分かり、拳銃を収めた。
おそらく鼻の骨が折れているクレイグの顔をみて、ウィリアムは、
「ひと悶着あったようだな。」
と聞いたが、クレイグは無表情のまま、整然と答えた。
「どうということはありません。死体は隠しました。」
闇の中であっても、生々しく見える傷から、部下に起きた災難を想像したウィリアムは、「そうか…。」と静かに返すと、背後のジョシュアを振り返り、二人に目配せした。
「始めよう。」
ウィリアム、クレイグ、ジョシュアの三人は管制棟建物の北側の壁に張り付くようにして、中央棟の方へと動いた。クレイグ、ジョシュアがそれぞれ北側と後方に警戒の目を向けている間に、先頭のウィリアムが管制棟の角から顔を出し、中央棟の方を偵察する。
十メートルほど離れた中央棟の間には、金属製の橋が三階部分でかけられ、その中央辺りにソビエト製の暗視ゴーグルを装着したソ連兵と思わしき影がAKML、夜間戦闘用のAK-47を手に警戒に当たり、その下には二人のソ連兵が同じく暗視ゴーグルを装着し、AKMNを手に警戒に当たっている。監視カメラはないが、イーノックの目もない今、とても誤魔化していけるような状況ではない。
ウィリアムは振り返り、背後のクレイグとジョシュアにハンドサインで、敵の人数、位置、突破の方法を伝えると、目配せの合図とともに、ハイスタンダードHDM消音拳銃を構えて、角から飛び出した。突然現れた侵入者の姿に、地上にいた二人のソ連兵は驚いたが、状況を理解するよりも前に、.二二LR弾に脳を突き破られ、即死し、橋の上の兵士もウィリアムの背後から飛び出したクレイグのCCGクロスボウガンから放たれた鋼鉄製弓矢が暗視ゴーグルを破って、眼球に突き刺ささり、橋の欄干によりかかるような形で死亡した。
「Go!」
手早く地面に倒れた二人の死体を、建物の脇に積み上げられた木箱やオイル缶の陰に片付けると、ハイスタンダードHDMを構えたウィリアムを先頭にして、三人は西側の入り口から中央棟の建物に侵入した。
「ベトコンには珍しく、コンクリート製の建物か…。」
壁を触りながら、クレイグが呟く。しっかりとした近代的な照明が天井に埋め込まれている廊下はかなり明るく、白いタイルが光を反射して、先程まで暗闇の中で活動してきた三人の目には少し痛く観じるほどだった。人の気配はないが、身を隠す場所も闇もない分、見つけられ安い。急ぐ必要があった。
「標的は地下一階にいる。行くぞ。」
まずは地下一階につながる階段に…。
ウィリアムは作戦前に頭の中に叩き込んだ中央棟一階の見取り図を脳裏に再現し、実際と照合しながら、地下へと向かう階段があるはずの場所へと向かった。
渓谷でのミスを繰り返さないよう、歩哨の気配に気をつけながら、イーノックはウィリアムが通ったのと同じルートで、三機のUH-1の側を通り、二名の歩哨と整備兵の死体が兵員室に隠されているMi-24Aハインドの脇を行きすぎて、アールと合流するために発電施設へと向かった。
「こちら、イーノック。発電施設に入ります。」
隊内無線に報告し、薄暗い照明の灯る発電施設の中を、アールが爆弾を仕掛けているであろう部屋へとイーノックは進んだ。
先に入ったアールが既に片付けたのか、敵兵士も技師の姿も見当たらない。HK33SG/1マークスマンライフルをスリングで背中に背負い、ハイスタンダードHDM消音拳銃を構えて、廊下を進む。目的の二階の部屋の前に辿り着くまで、彼は結局、誰一人とも遭遇することは無かった。
扉を開ける前に、後ろに気配がないことを再確認したイーノックはドアノブをゆっくり回し、ワイヤートラップが仕掛けられていないことも確かめながら、音をたてないように静かに戸を押し開けた。
扉の向こうには、二十平方メートルほどの空間に、恐らくは発電設備の中枢を担っている機械が四方を埋める部屋があった。そして、その中でガタガタと騒音を立てて動く機械類に向かって、迷彩服を来た長身の男がうずくまり、機械板の一つに仕掛けられた爆弾を触っている後ろ姿があった。迷彩柄のキャップ帽から覗く金色の短髪からアールだと思い、一瞬、親しげに話しかけようとしたイーノックだったが、男の脇に置かれた銃を見て凍りついた。
AKML…、ソビエト製AK-47の夜間特殊作戦仕様…。こいつは少尉ではない。逆に少尉が仕掛けた爆弾を解除しようとしているのだ。それならば、本物の少尉はどこに……?まさか、この男に殺された…?
イーノックはハイスタンダードHDMを向けた男の背中を常に視界の中に入れながら、部屋の中を見回したが、四方を機械の表示板が囲む狭い部屋の中には人の隠れるような場所も倒れた人を片付けるような場所もなかった。アールの姿は勿論ない。
だが、目の前で爆弾を触っている男は明らかに敵だ。爆弾を解除しようとしている。イーノックはハイスタンダードHDMの照準の先にある男の背中を睨んだ。心臓の鼓動が早まり、ハイスタンダードHDMを構えた手が震える。だが、どうすれば良いのかわからない。そのまま引き金を引けば良いのに、その瞬間にはイーノックに、その考えは浮かばなかった。彼は優秀な兵士だったが、まだ本物の戦場で、これほどの近距離で人を殺したことは一度もなかったのだ。
「手をあげろ!」と言おうかとイーノックが迷った時、彼の背後で開けたままだった扉が、カチャリ、と音を立てて閉まった。
しまった…ッ!
目の前の男の背中が強ばり、イーノックの心臓も飛び上がった。
「フリーズ!」
反射的にそう叫び、いや、ロシア人だから分からないか、と妙に冷静な考えがイーノックの頭をよぎった瞬間、迷彩服の男が上半身を捻り、ナイフをイーノックに向けて構えた。だが、男とイーノックとの間の距離は三メートルほど。ナイフで切りつけるには少し遠すぎる。
こちらは拳銃を構えているというのに…。一体、何を…。
イーノックがそう思った瞬間、彼の脳裏に記憶の中のリーの言葉が甦った。
「ロシアには刀身を飛ばすトリッキーなナイフもあるんだぜ…。」
耳の中に蘇ったその声に、イーノックが体を左に避けた刹那、彼の頭に刀先を向けたスペツナズ・ナイフの刀身が鞘の中に隠されていたスプリングの力で飛び出し、間一髪で避けたイーノックの頭のすぐ右脇を通過した。耳を微かに擦過した刀身の飛ぶ音に神経をあぶられ、ようやくハイスタンダードHDMの引き金を引き切ったイーノックだったが、その銃口から.二二LR弾が発射された時には、消音拳銃はイーノックの手から弾かれ、宙を待っていた。標的を射抜けなかった.二二LR弾が機械板に当たって、火花の閃光をあげる中で、ソ連兵の大男は俊敏な動きでイーノックに近づき、さらに第二撃を加えた。訓練でも格闘戦は幾度となく行い、イーノックの成績はレンジャー連隊の中でも、かなりの上位だったはずだが、初めての実戦に体が思うように動かず、気づいた時には飛びかかってきた男の右拳がイーノックの顔面に突き刺さっていた。鼻から血を吹き出し、後ろによろけたイーノックに、大男が更にタックルで襲いかかり、イーノックは背中を背後の壁に強打した。込み上げてきた吐き気を堪え、同時に合わせた両手の拳を大男の背中に振り下ろしたイーノックだったが、男の体はびくともせずに、逆にイーノックの下半身を両手で押さえると、一歩、二歩と助走をつけ、雄叫びとともに部屋の角に投げ飛ばした。投げ飛ばされたイーノックの体が四メートル近く飛び、部屋の右側の角に備え付けられた機械板にぶつかった。
機械板がへこむほどの勢いで、背中をうちつけたイーノックは朦朧とする意識の中で、大男が悠然と近寄ってくるのを見た。背中に背負っているマークスマンライフルを構えるには時間はない。右腰のホルスターに収めたブローニング・ハイパワーを引き抜こうと右手をホルスターに伸ばしたが、今ここでサプレッサーの着いていないこの銃を撃てば、外の敵に気づかれるかもしれない…、という懸念が彼の頭に走った瞬間、大男が倒れているイーノックの上に飛びかかった。ローリングしてかわそうとするも間に合わず、百キロ近い体重の男に馬乗りになられたイーノックは吐瀉物を吐き出し、さらに男の両手が彼の首を締め上げた。必死の抵抗で両手を使って男の首を折ろうとするが、丸太のように太い男の首には効果はない。イーノックは徐々に遠くなる意識の中で、戦闘服の胸の辺りをまさぐった。そして、視界が暗くなり、自分が何を触っているのかさえ分からなくなりそうな時に、掌に触った感触にイーノックは握ったナイフを一気に引き抜き、そのまま男の脇に突き立てた。刺す場所を冷静に考えている余裕はなかったが、男は雄叫びのような呻き声をあげ、イーノックの首を絞める両手の力を弱めた。自分の首への抵抗が一瞬弱くなった隙に、イーノックは男の体の下に両足を潜り込ませると、一気に伸展させ、その勢いで重さ百キロの男の体を蹴飛ばした。
バランスを崩し、後ろ向きによろけて、背後の壁に背中をうちつけた大男は、自分の戦闘服の脇に突き刺さっている小型ナイフを見ると、怒りの叫び声とともに、背中に背負っていた鞘からM1942マチェーテを勢い良く引き抜いた。イーノックは今だ左右に揺れる視界に映った男の姿に右腰のホルスターから引き抜いたブローニング・ハイパワーを構え、引き金を引こうとしたが、意識が朦朧として、体が思うように動かす、引き金を引くはずの人差し指は虚しく空を切った。
ああ…、嘘だろ…。
心中に呟いたイーノックのすぐ目の前に大男が迫り、振り上げられたマチェーテの長い刀身が、ブローニング・ハイパワーを構えて伸ばされたイーノックの右腕に振り下ろされようとした瞬間、ドシュ、という果物が砕けるような音とともに、男の頭部の左上が吹き飛び、赤い脳髄がイーノックの顔に飛び散った。口の中に入った男の血を吐き出そうとしたイーノックは続けて自分の体の上に倒れてきた重さ百キロの男の体に、腸から逆流してきた消化物まで吐き出してしまった。
「大丈夫か?ティッシュ、要るか?」
朦朧とした意識の中で、アールの声が聞こえて、体の上に載っていた百キロの重りが取り除かれる。
「すみません…。少尉…。」
「馬鹿野郎。無茶しやがって…。」
ふらつきながら呻くように謝るイーノックの体を起こすと、アールは機械板に仕掛けていた爆弾の前に座り込んだ。
「だが、お前のおかげで爆弾を解除されずに済んだ。」
アールが仕掛けた爆弾の脇には、大男のAKMLの他に、工作工具のようなものも置いてあった。恐らく、機械板の裏に仕掛けられた爆弾を見つけ、解除しようとしたところにイーノックが現れて邪魔されてしまったのだろう。
「気配はしてたが…、こいつ、俺の跡をつけてたのか…?」
アールが機械板の裏に設置した爆弾に何故気づくことができたのか、それは不明だったが、ひとまず大男の死体を隠すことが先決だった。
「この部屋の隣に物置がある。鍵も開いているから、そこに隠そう。」
爆弾を機械板の裏に戻し、アールが大男の両腕を、イーノックが両足を持って、機械室の隣の物置部屋に運んだ。その後で、物置部屋と機械室の両方の扉に細工をして開けることができないようにすると、二人は各々の次の配置場所へと向かった。
「俺はフェンスを潜って、位置に着く。お前はこの建物のの屋上で位置に着くんだ。」
アールはイーノックの背中を押した。
「時間がない。急ぐぞ。」
二人はそれぞれの持ち場へと走り始めた。