第一章 十六話 「当惑」

文字数 2,812文字

久しぶりに強く降った雨は強い風と雷までも伴っていた。雨戸は全て閉めていたが、外から家に叩きつける風が木製の小さな家を揺さぶり、ガタガタという家鳴りが常に聞こえる中、夕食を食べ終えたクレイグとレジーナはキッチンテーブルに向かい合わせに座ってチェスをしていた。嵐の時はいつも送電線が何処かで切れて電気が来なくなってしまうので、この日の夜も部屋の中を灯すのはチェス盤の傍らには置かれたランタンの灯火だけだった。
レジーナは頬杖をついて、次の一手を考えこんでいた。クレイグは、父親を今日こそは負かそうと思って真剣に考える娘の姿をうっとりとしながら見つめていた。
薄明るいランタンの灯に照らし出された幼い少女の白い肌は、ほんのりと赤らんで見えた。栗色の丸い瞳は次の駒をどこにおこうかとチェス番の上を真剣に見つめている。その美しい顔を見て、恍惚とするクレイグだったが、彼女の将来について思いを馳せた時、頭の中にはいつも、ある悩みが生じるのだった。
自分の一存で彼女をこのまま、この森の中に閉じ込めていて良いのか?
大きくなれば、レジーナも学校に行って、社会に出て、仕事につかなければならない。結婚もするだろう…。その時、自分とこの森の中で閉じ籠っていた幼少期の記憶が彼女の人生に悪い影響を及ぼさないだろうか…。
クレイグの脳裏に、遠ざかる青年の背中を目で追うレジーナの顔が思い浮かぶ。彼女が自分以外の他人に対して、あんな目をするだなんて…。孤児院で初めて出会った時、両親からの虐待を受けて人を信じないことを決めていたはずのあの子が…。いや、もしかしたら、それは過去の自分の姿を投影していただけで、本当は彼女はもっと色んな人たちと話したり、遊んだり、関わり合いを持ちたいのかもしれない…。俺は一体、どうすれば…、どうするべきなんだ…。
そんな考えに思いを巡らせていたところに腕を掴まれて、クレイグは我に帰った。
「ねぇ!ねぇ!お父さんの番だよ。」
はっと我に返ると、テーブルの上に身を乗り出したレジーナが両手でクレイグの手を握り、探るような視線を彼に向けて見つめていた。チェス盤に目を落とすと、レジーナはすでに駒を動かし終えた後だった。
「ちょっと待ってくれよ。父さんも考える時間が必要だからさ。」
外では嵐の勢いが強くなり、先程よりも強くなった風が雨戸をカタカタと揺らしていた。
今日は調子が狂っているな。やはり、あの男達が会いに来たせいなのか?
答えの明白な問いを自問するクレイグは腕組みをして、チェス盤の全体を概観した。
なるほどな…。
最初はやったらめったらにしか駒を動かすことのできなかったレジーナだったが、今はクレイグも感心するような上手い一手を打ってくる。だが、彼と対等に戦い会うためには、まだ実力不足だった。チェス盤を見回して、レジーナが次に取るであろう手と、そして、更にその先の勝負の進行も即座に予想して、戦略を建て直したクレイグは次に動かす駒を手に取った。
「そうだな。じゃあ、お父さんはこのボーンを…。」
クレイグが手に取ったボーンを動かそうとした瞬間、閉めた雨戸の向こうで雷鳴が轟いた。かなり近い。閃光と同時に小さな家を震わした大きな雷鳴に、視線を雨戸の方に移したレジーナが「びっくりした…。」と漏らしたが、その言葉はクレイグの耳の中には入っていなかった。
彼はボーンの駒を掴んだまま硬直して、チェス盤の上の一点をじっと見つめていた。だが、意識はチェス盤の上など見てなかった。彼の意識は記憶の中の一点を見つめていた。
「ボーンを…。」
そう力なく呟いた時、再び暗い部屋の中に閃光が走り、直後に轟いた雷鳴の轟音にレジーナが悲鳴をあげた…。だが、彼の意識には娘の悲鳴は入っておらず、脳裏には記憶の中で叫び続けるジョセフ・ハンフリーズの声が反響していた。
「こちら、ボーン・フィッシュ……。コマンド……、願う!」
再び鳴る雷鳴、吹き荒れる嵐が体を打つ冷たさ、強く打ち付ける雨の感覚。聴覚だけでなく、五感の全てがあの日の記憶を思い出そうとしていた。記憶の中の叫びはますます大きくなる。
「……こちら、ボーンフィッシュ!……コマンド、応答願う!」
その声がはっきりと聞こえた時、クレイグの目の前には孤立無縁のカンボジア国境地帯で豪雨の中、岩陰に身を隠し、司令部に支援を求めて無線機に叫ぶジョセフの姿がはっきりと見えていた。その無線機のコードの伸びる先には、後に戦闘で死んだSEALsの同僚がXM177E2カービンを岩陰から掃射する姿もある。あちこちで轟く銃声、雷鳴とともに弾けた迫撃砲弾の巻き上げた土砂が飛び散った上に容赦なく降り注ぐモンスーンの豪雨、全てが現実味を帯びていた。
隣ではアール・ハンフリーズが死んだ仲間の亡骸にすがり付いている。「そいつはもう死んでる!」そう叫びながら、クレイグがアールの背中を岩陰に引き込もうとした時、「来るぞー!」というジョセフの絶叫とともに、すぐ脇で全身を弾き飛ばすような爆発が起こり、頬をつねられたクレイグの意識が現実に戻ったのは、その瞬間だった。
「ねえ!」
全く動かない父親に痺れを切らし、テーブルに身を乗り出して、両手で頬をつねってきた娘の顔が目の前にあった。
「それ、動かすなら早くしてよね。」
手を離した娘が頬を膨らませて、クレイグの左手の中に握られたままのボーンの駒を指さして言った。
「ああ...。ごめん、ごめん。じゃあ、ここに置こうかな…。」
クレイグは慌てて駒を置いた。こんなはっきりとフラッシュバックするのはいつぶりだろう…。胸の動悸が先程まで戦場にいたかのように速まっているのを感じながら、クレイグは、やはり今日はあの男たちが来たせいで調子がおかしい、と一人考えた。
焦りとともに適当に置いたボーンはあっさりレジーナに取られてしまった。にんまりと微笑む娘に憔悴している様子を悟られないように笑顔を返しながらも、クレイグはまた次の手を考えようとしたが、先程までの恐怖で頭が固まって働かない。
「ごめん。今日は、お父さん山に出かけて疲れてるから、早めに寝よう。」
苦し紛れの言い訳を口に出しながら席を立ったクレイグに、自分が勝ちそうになったから逃げた、と思った娘は、「えー、なんでー。」と駄々をこねたが、「ちゃんと明日、続きをやるから。」とクレイグが諭すと、渋々眠る準備を始めた。
歯を磨きに洗面所に走った娘の背中を見送りながら、クレイグはようやく落ち着きを取り戻した心で、自分に言い聞かせた。
そうだ、今日は疲れているだけだ...。あいつら来たせいで…。
クレイグはコップに入れた水を飲みながら、机の上に目をやった。対戦の途中で置かれたチェス盤の傍らには、先程クレイグが握りしめていたボーンが転がっている。手汗の染みが残る木製の駒を見つめながら、クレイグは自分の心を落ち着けた。
大丈夫だ…。俺はもう何からも逃げる必要はないんだ...。
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登場人物紹介

*ウィリアム・ロバート・カークス


本作の主人公。階級は大尉。米陸軍特殊戦用特殊部隊「ゴースト」のブラボー分隊を率いる。

八年前、ベトナム戦争従軍中、ベトナム共和国ダクラク省のチューチリンで起きた"事件"がトラウマとなり、現在でも戦闘中に襲ってくるフラッシュバックに悩まされている。


ゲネルバでの大使館占拠事件の際には、MC-51SD消音カービンを使用し、サブアームにサプレッサーを装着したH&K P9Sを使用する。


#特徴

黒人

身長は一八〇センチ台前半。

髪の毛はチリ毛だが、短く刈っている上に何らかの帽子などを被っていることが多いため、人前に見せることは少ない。

#イーノック・アルバーン


第七五レンジャー連隊・斥候狙撃班に所属する若きアメリカ兵。階級は登場時は上等兵、「ゴースト」の作戦に参加したことで伍長へと昇進した。


彼の兄で、ベトナム時代のウィリアムの戦友だった故ヴェスパ・アルバーンの代わりに、「ゴースト」へと招集される。


実戦を経験したことはないが、狙撃の技術に関しては、兄譲りの才能を見せる。


#特徴

白人

身長一八〇センチ前半台

短い茶髪 

*クレイグ・マッケンジー

元Navy SEALsの隊員でアールと同じ部隊に所属していたが、参加したカンボジアでのある作戦が原因で精神を病み、カナダに逃亡する。その後、孤児だったレジーナを迎え入れ、イエローナイフの山奥深くで二人で暮らしていたが、ウィリアム達の説得、そして自身の恐怖を克服したいという願いとレジーナの将来のために、「ゴースト」に参加し、再び兵士となる道を選ぶ……。


*特徴

年齢29歳

くせ毛、褐色の肌

出生の記録は不明だが、アメリカ先住民の血を強く引く。

*アール・ハンフリーズ


序章から登場。階級は少尉。「ゴースト」ブラボー分隊の副官として、指揮官のウィリアムを支える。 

その多くが、戸籍上は何らかの理由で死亡・行方不明扱いになり、偽物の戸籍と名前を与えられて生活している「ゴースト」の退院達の中では珍しく、彼の名前は本名であり、戸籍も本来の彼のものである。


ゲネルバ大使館占拠事件では、ウィリアムと同じくMC-51SD消音カービンをメイン装備として使用する他、H&K HK69グレネードランチャーも使用する。


#特徴

白人

身長一九〇センチ

金髪の短髪

*イアン・バトラー


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で階級は先任曹長。戦闘技能では狙撃に優れ、しばしば部隊を支援するスナイパーとしての役割を与えられる。

年齢は四十代後半であり、「ゴースト」の隊員達の中では最年長で、長い間、軍務についていたことは確かだが、正確な軍歴は分隊長のウィリアムでも知らない。


ゲネルバ大使館占拠事件では、降下してくる本隊を支援するため、サプレッサーを装着したレミントンM40A1を使用して、敷地内のゲネルバ革命軍兵士を狙撃する。


#特徴

白人

やや白髪かかり始めた髪の毛

*ジョシュア・ティーガーデン 


「ゴースト」ブラボー分隊の通信手を務める一等軍曹。巻き毛がかった金髪が特徴。周囲の空気を敏感に感じとり、部隊の規律を乱さないようにしている。


各種通信機器の扱いに長け、リーと同様に通信機器に関してはソビエト製のものや旧ドイツ、日本製のものでも扱える。


#特徴

白人

身長一八〇センチ台前半

金髪

*トム・リー・ミンク


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で、階級は一等軍曹。身長一七〇センチと「ゴースト」の中では小柄な体格だが、各種戦闘能力は高く、特に近距離でのナイフ戦闘技能と爆発物の扱いには優れている。特にミサイル、ロケット系の兵器に関しては、特殊訓練の結果、ソビエト製兵器でも使用できる。


気の強い性格から、他の隊員と口論になることもあるが、基本的には仲間思いで優しい性格である。

だが、敵となったものに対しては容赦のない暴力性を発揮する。


同部隊のアーヴィング一等軍曹とはベトナム戦争時から同じ部隊に所属しており、二人の間には特別な絆がある。


#特徴

アジア系アメリカ人

身長一七〇センチ

*アーヴィング・S・アトキンソン 


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員の一人で機銃手を務める大柄な黒人兵士。 階級は一等軍曹。


その大柄な体格とは逆に性格は心優しく、穏やかであり、部隊の中でいざこざが起こったときの仲裁も彼がすることが多い。


トム・リー・ミンクとはベトナム戦争時代からの戦友。


#特徴

黒人

身長一九五センチ

*ハワード・レイエス


「ゴースト」ブラボー分隊の隊員で、前衛を務める。階級は曹長。

父親は不明、母親はメキシコからの不法移民でヒスパニック系の血を引く。7歳の時、母親が国境の向こう側へ送還されてからは、移民が集合するスラム街で生活。学校にも通っていなかったが、自発的に本から学んだことで、米国の一般レベルを上回る知能、知識を持ち、スペイン語をはじめとする語学に堪能。


ゲネルバでの作戦時には、部隊の先頭を切って勇敢に突撃したが、後にウィリアムの身代わりとなって死亡する。

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