第一章 十六話 「当惑」
文字数 2,812文字
レジーナは頬杖をついて、次の一手を考えこんでいた。クレイグは、父親を今日こそは負かそうと思って真剣に考える娘の姿をうっとりとしながら見つめていた。
薄明るいランタンの灯に照らし出された幼い少女の白い肌は、ほんのりと赤らんで見えた。栗色の丸い瞳は次の駒をどこにおこうかとチェス番の上を真剣に見つめている。その美しい顔を見て、恍惚とするクレイグだったが、彼女の将来について思いを馳せた時、頭の中にはいつも、ある悩みが生じるのだった。
自分の一存で彼女をこのまま、この森の中に閉じ込めていて良いのか?
大きくなれば、レジーナも学校に行って、社会に出て、仕事につかなければならない。結婚もするだろう…。その時、自分とこの森の中で閉じ籠っていた幼少期の記憶が彼女の人生に悪い影響を及ぼさないだろうか…。
クレイグの脳裏に、遠ざかる青年の背中を目で追うレジーナの顔が思い浮かぶ。彼女が自分以外の他人に対して、あんな目をするだなんて…。孤児院で初めて出会った時、両親からの虐待を受けて人を信じないことを決めていたはずのあの子が…。いや、もしかしたら、それは過去の自分の姿を投影していただけで、本当は彼女はもっと色んな人たちと話したり、遊んだり、関わり合いを持ちたいのかもしれない…。俺は一体、どうすれば…、どうするべきなんだ…。
そんな考えに思いを巡らせていたところに腕を掴まれて、クレイグは我に帰った。
「ねぇ!ねぇ!お父さんの番だよ。」
はっと我に返ると、テーブルの上に身を乗り出したレジーナが両手でクレイグの手を握り、探るような視線を彼に向けて見つめていた。チェス盤に目を落とすと、レジーナはすでに駒を動かし終えた後だった。
「ちょっと待ってくれよ。父さんも考える時間が必要だからさ。」
外では嵐の勢いが強くなり、先程よりも強くなった風が雨戸をカタカタと揺らしていた。
今日は調子が狂っているな。やはり、あの男達が会いに来たせいなのか?
答えの明白な問いを自問するクレイグは腕組みをして、チェス盤の全体を概観した。
なるほどな…。
最初はやったらめったらにしか駒を動かすことのできなかったレジーナだったが、今はクレイグも感心するような上手い一手を打ってくる。だが、彼と対等に戦い会うためには、まだ実力不足だった。チェス盤を見回して、レジーナが次に取るであろう手と、そして、更にその先の勝負の進行も即座に予想して、戦略を建て直したクレイグは次に動かす駒を手に取った。
「そうだな。じゃあ、お父さんはこのボーンを…。」
クレイグが手に取ったボーンを動かそうとした瞬間、閉めた雨戸の向こうで雷鳴が轟いた。かなり近い。閃光と同時に小さな家を震わした大きな雷鳴に、視線を雨戸の方に移したレジーナが「びっくりした…。」と漏らしたが、その言葉はクレイグの耳の中には入っていなかった。
彼はボーンの駒を掴んだまま硬直して、チェス盤の上の一点をじっと見つめていた。だが、意識はチェス盤の上など見てなかった。彼の意識は記憶の中の一点を見つめていた。
「ボーンを…。」
そう力なく呟いた時、再び暗い部屋の中に閃光が走り、直後に轟いた雷鳴の轟音にレジーナが悲鳴をあげた…。だが、彼の意識には娘の悲鳴は入っておらず、脳裏には記憶の中で叫び続けるジョセフ・ハンフリーズの声が反響していた。
「こちら、ボーン・フィッシュ……。コマンド……、願う!」
再び鳴る雷鳴、吹き荒れる嵐が体を打つ冷たさ、強く打ち付ける雨の感覚。聴覚だけでなく、五感の全てがあの日の記憶を思い出そうとしていた。記憶の中の叫びはますます大きくなる。
「……こちら、ボーンフィッシュ!……コマンド、応答願う!」
その声がはっきりと聞こえた時、クレイグの目の前には孤立無縁のカンボジア国境地帯で豪雨の中、岩陰に身を隠し、司令部に支援を求めて無線機に叫ぶジョセフの姿がはっきりと見えていた。その無線機のコードの伸びる先には、後に戦闘で死んだSEALsの同僚がXM177E2カービンを岩陰から掃射する姿もある。あちこちで轟く銃声、雷鳴とともに弾けた迫撃砲弾の巻き上げた土砂が飛び散った上に容赦なく降り注ぐモンスーンの豪雨、全てが現実味を帯びていた。
隣ではアール・ハンフリーズが死んだ仲間の亡骸にすがり付いている。「そいつはもう死んでる!」そう叫びながら、クレイグがアールの背中を岩陰に引き込もうとした時、「来るぞー!」というジョセフの絶叫とともに、すぐ脇で全身を弾き飛ばすような爆発が起こり、頬をつねられたクレイグの意識が現実に戻ったのは、その瞬間だった。
「ねえ!」
全く動かない父親に痺れを切らし、テーブルに身を乗り出して、両手で頬をつねってきた娘の顔が目の前にあった。
「それ、動かすなら早くしてよね。」
手を離した娘が頬を膨らませて、クレイグの左手の中に握られたままのボーンの駒を指さして言った。
「ああ...。ごめん、ごめん。じゃあ、ここに置こうかな…。」
クレイグは慌てて駒を置いた。こんなはっきりとフラッシュバックするのはいつぶりだろう…。胸の動悸が先程まで戦場にいたかのように速まっているのを感じながら、クレイグは、やはり今日はあの男たちが来たせいで調子がおかしい、と一人考えた。
焦りとともに適当に置いたボーンはあっさりレジーナに取られてしまった。にんまりと微笑む娘に憔悴している様子を悟られないように笑顔を返しながらも、クレイグはまた次の手を考えようとしたが、先程までの恐怖で頭が固まって働かない。
「ごめん。今日は、お父さん山に出かけて疲れてるから、早めに寝よう。」
苦し紛れの言い訳を口に出しながら席を立ったクレイグに、自分が勝ちそうになったから逃げた、と思った娘は、「えー、なんでー。」と駄々をこねたが、「ちゃんと明日、続きをやるから。」とクレイグが諭すと、渋々眠る準備を始めた。
歯を磨きに洗面所に走った娘の背中を見送りながら、クレイグはようやく落ち着きを取り戻した心で、自分に言い聞かせた。
そうだ、今日は疲れているだけだ...。あいつら来たせいで…。
クレイグはコップに入れた水を飲みながら、机の上に目をやった。対戦の途中で置かれたチェス盤の傍らには、先程クレイグが握りしめていたボーンが転がっている。手汗の染みが残る木製の駒を見つめながら、クレイグは自分の心を落ち着けた。
大丈夫だ…。俺はもう何からも逃げる必要はないんだ...。