第四章 零話 「地獄の中の奇跡」
文字数 3,937文字
長崎への原爆投下、その直後に日本政府が表明した無条件降伏から一ヶ月後の一九四五年九月、最初の原爆が投下された広島に続いて、長崎にも東京帝国大学医学部の協力を得た日米合同調査団がやって来た。その調査団の一人として、原爆投下後の長崎における被爆者の健康状態と核爆弾の生態系への影響を記録する任務を与えられたアメリカ陸軍の医務技官、ディエゴ・ジョ・ウィガム中佐は現場に辿り着くまでは、敵国の日本人など研究対象にしか過ぎないと思っていたが、爆撃地の惨状を実際に目にした瞬間、その余りにも酷たらしい惨状に言葉を失った。
熱で壊死した皮膚が剥がれ、骨が見えている足を引きずりながら歩く年齢も性別も分からない人間、頭の右半分が完全に焼け焦げた少女、強烈な熱によって抱き上げた赤子もろとも炭化した女の死体…、それらを目にして、ウィガムの中にあった日本人に対する憎しみといったものはかき消され、代わりに恐怖が彼の胸を埋め尽くした。それは自分達が何かとんでもない過ちを犯してしまったのではないか、という後悔に近い恐怖だった。
敵も自分達と同じ人間だったのだ…。我々は長く続いた戦争の中でそれを忘れてしまい、踏み込んではならない領域の暴力や殺戮にまで手を伸ばしてしまったのではないか…。
そんな後悔にも似た恐怖を何とか打ち消そう、埋め合わせをしようとウィガムは必死に被爆者達の応急処置をした。
「ドクター・ウィガム!こっちに来てください!」
帝国医科大の教授達に連れられてやって来た即席の病院施設で街よりも更に酷い惨状を目の当たりにし、記録のことなど完全に忘れて、被爆者達の処置をしていたウィガムを帝大の若い日本人学生が慌てた様子で呼びに来た。
「今は処置中だ。」
爆弾の熱傷で右上腕に頭と同じくらいの大きさの水疱が膨れ上がった少女の処置をしながら、日本に駐在していた経験で話すことのできる日本語を使って、日本人の学生に返答したウィガムだったが、細くやせた顔に眼鏡をかけた学生はウィガムの視界の中に入り込んでくると、
「ドクターにどうしても見てもらいたい患者がいる、と先生が…。」
と切羽詰まった様子で頼み込んだ。その言葉と見返した学生の緊迫した表情を見て、只事ではないと感じ取ったウィガムは数秒の沈思の後、少女が横たわる簡易ベッドの脇から立ち上がると、少女の母親に「すぐに戻る。」と言って立ち去ろうとしたが、何としてでも我が子を救いたい母親は泣きながら、彼の服の袖を引っ張って止めようとした。
「先生は忙しいんです。また戻ってきますから、離して!」
帝大の医学生が優しく諭しても、必死になっている母親を止めることはできず、最後には日本人学生が母親の手を強引に振り解いた。
「ドクター!こちらです!」
学生に腕を振り払われた勢いで地面に倒れた母親と号泣する母の姿を何も分からないという目で見つめる幼い少女、その二人の姿を一瞥し、後ろめたさを感じながらも、ウィガムは帝大生の後に続いた。
筆舌に尽くしがたい惨状を呈している病院施設の中を学生の後ろについて、数分ほど歩いたところで、ウィガムは帝大の教授達が一室の端に集まっているのを見つけた。
「こちらです。」
すみません、と言いながら、集まっている教授達を押し退けて、彼らの中心に進んだ学生の後ろに続いたウィガムは人混みをかき分けた先で、白いベッドの上に横たわっている小さな体を見つけた。まだ成人になり切っていない体は全身に強い熱傷を受けており、その殆ど全体を包帯に包まれ、白い包帯の内側からは赤黒い血と淡黄色の膿が染み出しており、その姿は何とも痛々しいものだったが、数人もの日本人教授が集まって、少年の事を見つめていたのは、彼の負傷のあまりにも悲惨なことを憐れんでいたためではなかった。
「この患者は一体…。」
少年の姿を見てウィガムが呟くと、ベッドの傍らに座っていた白髪混じりの日本人医師が顔を彼の方に向けて、説明を始めた。
「今日来られた先生方には彼が他の患者達とどう異なるのか全く分からないでしょう…。何しろ彼の状態の驚くべき点はある時間の一点にあるのではなく、経過する現象の中にあるのですから…。」
要点から話さない日本人医師の言葉の真意をウィガムが掴みそこねていると、先程の帝大医学生が横から補足を入れてくれた。
「この患者の注目するべき点は症状そのものではなく、その症状の変化なのだと先生は仰っています。」
学生の補足を聞き、禿頭に白髪混じりの日本人医師は満足げに頷くと、ゆっくりとした口調で先程の話を続けた。
「最初、彼がここに運び込まれた時、その体は一部が炭化し、全身の熱傷の程度も著しく、四肢の指の一部も欠損していました。私は彼を救えないと判断し、瀕死の患者とともに区別しました…。」
「信じられないでしょうが、爆弾が爆発した時、彼が居たのは爆心地から一〇〇メートル圏内の場所でした。」
ゆっくりとした口調で喋った日本人医師の言葉の後に、帝大医学生がまたしても補足を付け加えた。
爆心地から一〇〇メートル以内といえば、生存者はゼロのはずだ…。
長崎にやってくる前日に東京大学の教授達と日本政府が用意してくれた資料の内容を思い出しながら、ウィガムは日本人医師の話を静かに聞いていた。
「しかし、ここに運び込まれて一週間が経っても彼は生き続けました。それだけでも驚愕に値することですが、さらに驚くべきことは彼の回復速度です。」
日本人医師の話を聞きながら、ウィガムはベッドの上に横たわっている少年の体を隅々まで見つめた。全身を包帯に包まれた姿は痛々しいものの、医者が話したほどの重症であれば、普通は一ヶ月もの間を生きてはいられないはずだ。
「始めは免疫系の個人差によるものかと思いましたが、彼を観察していく中で私の考えが誤りであるのだということを悟らさせられました…。」
白いのです…、最後にそう言った日本人医師の言葉が聞き取れず、「何と?」と聞き返したウィガムに、日本人医師は目の前の白人医務技官を見つめて、震える声で答えた。
「貴方達と同じように、白いのです…。」
「何…?」
聞き返したウィガムの言葉に答える代わりに、日本人医師は少年の右腕を包んだ包帯の一部を取った。呻き声をあげると同時に、小さな体を震わせた少年の姿に、胸が苦しくなるのを感じたウィガムの目の前で露わにされた少年の肌は既に重度の熱傷からの回復を終えようとしていたが、その色は典型的な日本人のものとは異なる乳白色をしていた。
貴方達と同じように、白いのです…。少年の肌の色を見た瞬間、そう言った日本人医師の言葉の意味をウィガムは理解したが、同時に目の前の余りにも常識離れした現象に何倍もの疑問が彼の頭の中を埋め尽くした。
「彼は在留外国人だったのか?」
長崎の郊外には捕虜収容施設があり、少なからぬ連合国軍兵士も新型爆弾の巻き添えとなったことを思い出しながら、ウィガムは日本人医師に問うたが、愚問だった。
「いえ、彼はれっきとした日本人でしたよ。あの爆発の瞬間までは…、ね。」
未知の科学事象を目の前にしたにしては、余りにも軽すぎる日本人医師の言葉にウィガムは、
「そんな…。では、彼の体はあの爆発の瞬間から白人になったというのか…?」
と呻くようにして呟いたが、日本人の医者はゆっくりと首を左右に振ると、ウィガムの言葉を訂正するように続けた。
「単に変化しているのではありません。彼の体は全く別の人間に生まれ変わろうとしているのです…。」
そう言いながら、医師は傍らに置いていた数枚の写真をウィガムに手渡した。その写真には、この病院に収容されてからの少年の容態の変化が、あの八月九日から写されていた。
「運ばれてきた時、骨まで溶けていた左足の指は骨の内部から再生し、まるで切り取ったトカゲの尻尾が生えてくるかのように、日に日に修復が進んでいます…。」
日本人医師が説明するのを聞きながら、ウィガムは信じられない事態の推移を写した写真の数々を見つめていた。
「そんな…、一度生まれ出た人間の体がこれほどまでのレベルで再生するのは見たことがない…。」
驚き、慄くしかないウィガムの目を見返して、医師は続けた。
「原因は不明ですが、あの爆発以降、なんの病気もなく元気だった人間が突然血を吐き、髪も全て抜けて死ぬという奇妙な現象が起きております。常識では考えられない点では、彼だけが特別というわけではないのでは?」
先程までと違い、ウィガムの目を見つめ、重々しく述べた日本人医師の言葉には、自身も原爆の被害者である彼のアメリカ人に対する非難の念も込められていたが、ウィガムには医師のそんなこと言葉など全く意識に入っていなかった。
この少年を絶対に本国に連れて帰る…。
彼の胸の中には、その決意しかなかった。研究者として少年の身に起こった事象に対して、深い興味を持ったからだけではない。太陽の炎に焼かれたこの街にやって来てから、否応なく見せられたもの、無数の屍と無残な負傷者の姿…、彼らの姿を目に焼き付けていく中で、人類はかくも残虐になれるのか、と己自身の存在に恐怖し始めていたウィガムは早くその恐怖をかき消してくれるものを見つけたかったのだった。そして、この少年こそが正しくそのための鍵であるに違いないとウィガムは確信していた。
もしかしたら、この少年は、身に余る大きな力を手に入れてしまった人類の運命を救ってくれるかもしれない…。
そう思ったウィガムは頭部を包んだ包帯の中から自分を見返す少年の目を見つめた。その目は青く、どこまでも深い深淵を映していた。